宗教改革の先駆者、ウィクリフ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:57 UTC 版)
「中世ヨーロッパにおける教会と国家」の記事における「宗教改革の先駆者、ウィクリフ」の解説
オックスフォード大学に学んだイングランドの神学者ウィクリフは、イングランド議会と教皇庁の課税権を巡る論争で、議会を擁護した。ウィクリフはやがて教皇の聖職叙任権も批判し、さらに教会財産の没収を主張したため、教会に異端審問にかけられた。しかし、ウィクリフを支持するジョン王子やロンドン市民の側から圧力が加えられ、ウィクリフは解放された。こののちウィクリフは教義の批判に進み、教会の教えも聖書に根拠がなければ認められないとして、聖職者独身制、聖餐の化体、告解などを批判、さらに人間の救済は教会でなく、神の恩寵、それに対する個人の信仰だけによると主張した。またウィクリフは聖書の英語訳を行い、特権的な身分の言葉であったラテン語による普遍世界から地域国家の民衆とむすびついていくことに貢献した。ウィクリフの支持者はロラード派(あるいはロラーズ、"Lollards")といい、1381年のワット・タイラーの乱において理論的指導者となったジョン・ボールはウィクリフの思想を説教していた。1401年に議会で異端者を火刑に処すことを認める法が成立し、異端運動の弾圧は本格化した。一方1402年にロラード派の下級貴族が反乱を企て(オールドカースルの乱)1431年にはロラード派の大規模な反乱ジャック・シャープの乱が起こった。 その後ロラーズは弾圧され、1415年のコンスタンツ公会議ですでに死んでいたウィクリフがフスとともに異端とされ、ウィクリフの死体が掘り起こされて焼き捨てられた。
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