宗教改革までの西方教会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 07:24 UTC 版)
西方教会で最初に讃美歌を作ったのは、ヒラリウスであると言われている。小アジアへ亡命していたときに聞いた東方教会の賛美を聞いて、ラテン語の歌集を著した。その後、アンブロシウスがミラノ教会から追放されそうになった時に、人々が団結して教会と司教を守った。その時に、会衆を鼓舞するために、東方教会の風習にならって聖歌が歌われた。その後、アンブロシウスの歌は民衆に広まったが、教会の礼拝では用いられなかった。 ローマ教皇グレゴリオ1世がそれまでの歌曲を改編して、「グレゴリオ聖歌」を作り上げて、ローマ教会の公認の聖歌になった。 9世紀に「セクェンチア」という新形式の歌が現れ、ミサの中に取り入られる。創始者は、スイスの修道士ノートカーであった。さらに、クリューニーのベルナールになると複雑なものになり、12世紀の聖ヴィクトルのアダムによって完成された。 レオ10世の時に、聖歌の統制運動が起こり、クレメンス7世の時に公認され、統制された歌のみによって、「日祷書」が成立した。
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