宗教改革以後
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宗教改革の旗手となったマルティン・ルターは、パウロ書簡を引用して信仰のみによる救済を説いた。信仰義認は、その後のプロテスタントの根幹となるテーゼの一つとなった。
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宗教改革以後
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宗教改革が始まるとヴァルド派は、スイスの改革派教会に使者を送り教義の齟齬はあったものの1560年代までに独自の信仰のスタイルと実践を放棄し、改革派教会に合流した。そのためアルプスの谷間の信徒は大迫害を受け、生存者はスイスに逃れた。 ピエモンテの渓谷地帯に住んでいたヴァルド派の信者たちも1655年4月の復活祭の前後法王庁の了解の下にサヴォイア家のカルロ・エマヌエーレ2世とフランス王国の連合軍により虐殺された。イングランドのオリバー・クロムウェルがプロテスタント諸国に外交的圧力をかけ、滅亡は免れた。ジョン・ミルトンはこの虐殺の追憶の詩『ピエモンテの虐殺』(On the Late Massacre in Piedmont)を書いた。ミルトンはヴァルド派をプロテスタントの先駆者と認め「私たちの先祖たちが木や石(の偶像)を拝んでいた時に、古い真理を守った」と述べている。またピューリタンは当時からヴァルド派を福音主義教会と認めていた。 1685年、フランスでナント勅令が廃止され、再度フランスによるプロテスタント弾圧政策が実行される。翌年1686年、フランス・サヴォイア連合軍は再度ピエモンテのヴァルド派の渓谷地帯に侵攻した。渓谷地帯の住民はゲリラ戦にて抵抗したが、多くが虐殺され、翌年生き残った住民はスイス等へ追放された。しかし1688年、イングランドで名誉革命が起こりプロテスタントが国王に即位すると情勢が変わり、イギリスとオランダの支援の下、ヴァルド派は残り続け、1689年にアルプスの険しい山脈地帯を旅して元住民たちが谷に帰還した。この一件は、ヴァルド派では”栄光の帰還”として民族的記憶ともいうべきものとなっている。その後もイギリスやオランダ、スイス等の国家やプロテスタント組織の支援の下に復興して、サヴォイア公の忠実な臣民としてスペイン継承戦争ではフランスと勇敢に戦った。イギリスとオランダが後見人兼保証人がついている、ピエモンテの渓谷地帯のヴァルド派は援助や資金を引き出すためにサヴォイア公に利用された。 18世紀後半になってもイギリスからの資金援助は続いたが、ジャコバイトの脅威がなくなったこともあって、ヨーロッパ大陸の同胞に対する興味を薄れていった。谷では静かな生活が続いたが、1789年のフランス革命と続くナポレオン戦争によってサヴォイア家はピエモンテから追放された。ナポレオン・ボナパルトはヴァルド派に好意的で宗教的差別は撤廃され、住民は谷の外でも働けるようになったが、外国軍の駐留が長引くにつれ物価が高騰してプロテスタント諸国からの援助も敵領ということで打ち切られた。1814年にナポレオンの流刑でサヴォイア家が王政復古をすると以前の抑圧体制に戻り、谷の外にいた住民も戻され谷は窮乏した。再びプロテスタント諸国に援助を求め、イギリスでは興味を持った著名人たちの紹介でヴァルド派を支援するようになった。 1848年にはサヴォイア家のカルロ・アルベルト国王によってカトリックと同じ市民権が与えられた。1893年には、ウンベルト1世が谷を訪れ教会を称賛した。これを機会に、王家の子供の乳母はヴァルド派から選ばれるようになった。
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