宗教改革の推進と失脚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 18:45 UTC 版)
「トマス・クランマー」の記事における「宗教改革の推進と失脚」の解説
ヘンリー8世とジェーンの息子エドワード6世が即位、護国卿として実権を握るサマセット公の下で更に宗教改革を推し進めた。1549年と1552年の2度に渡り制定した共通祈祷書を制定、これを付け加えた礼拝統一法(英語版)が制定、儀式にカトリック的要素を残しながらも礼拝文を1冊に纏める試みが行われた。 ところが、1553年にエドワード6世が死亡、ノーサンバランド公ジョン・ダドリーの画策で擁立したジェーン・グレイが擁立されると危機に立たされた。計画が失敗したノーサンバランド公は処刑、新たに即位したメアリー1世からジェーン擁立に与したとしてクランマーもロンドン塔へ投獄されたからである。女王はイングランドをカトリックの国家にするという意思を表明、国教会は苦境に立たされ、クランマーは審問や法廷に引きずり出され教義討論に出席したり、必死に女王へ助命嘆願したが却下され、1555年9月に開かれた裁判で異端の烙印を押され破門と死刑に決まった。 プロテスタントを迫害し、女性子供を含む約300人を処刑したため、「ブラッディ・メアリー(血まみれのメアリー)」と呼ばれたメアリー1世はプロテスタントの教役者達を片っ端から逮捕、クランマーもその例外ではなかった。獄中で生への執着が芽生えたクランマーは5度も信仰を撤回してカトリック転向を宣言したが、助からないことを悟ると、オックスフォードで執行された処刑当日の1556年3月21日に今までの転向を否定し、命惜しさに転向したことを告白、キリストの敵である教皇を認めないと宣言した。そして転向書に署名した右手を真実に反することを書き連ねたとして燃え盛る炎に突っ込み、全身火炙りにされた。処刑されたプロテスタントの殉教者の中には、ヒュー・ラティマー、ニコラス・リドリーらがいる。
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