宗教改革と学校
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「ローデンバッハ (マイン=キンツィヒ郡)」の記事における「宗教改革と学校」の解説
ローデンバッハにおける宗教改革のため、ニーダーローデンバッハの牧師ミヒャエル・ヴァインブレンナーが招聘され、1527年に着任し、1556年までこの地にあった。ヴァインブレンナーは、ハーナウ伯領の他の牧師達と同様に、速やかに宗教改革を遂行した。1549年にマインツ大司教の命令によって巡察が行われるまでカトリックに留まっていたのは、伯領内の22の教区の内、わずか5教区だけであった。 しかし、1527年以前にはすでに教会側からの働きかけが必要な状態であった。1525年と最終的には1527年に、ローデンバッハの農民たちが1468年に創設されたヴォルフガング修道院を破壊した。この修道院は、現在はその跡だけが遺されている。修道士たちの理想的とは言い難い素行に対して非難がなされた。暴力や宴会が非難の的となった。農民のこうした行動に対して、ハーナウ伯は処罰を与えなかった。 宗教改革は、宗教上のみならず、社会生活や文化活動、特に教育に影響を及ぼした。これはルターのパンフレットにある「ドイツのすべての街の市参事会にキリスト教の学校を設立し、運営すべきである」という文言に直結していた。ここで、16世紀後半までハーナウにも学校がなかったことに注意すべきである。1606年になってやっと、フランクフルトの最初の学校が記録されている状態であった。一方、ローデンバッハでは早くも1540年頃に学校教育が始まっていたという証拠が見られる。さらに、ニーダーオーデンバッハは、1539年の「聖マルティヌス」の日に、「ハーナウの学校教師に」それまで1年分の報酬 1 ギルダーを支払っている。しかしその後、ハーナウからの請求はなく、こうした支出は記録されていない。1544年に「シュトラスブルクの歌の本」を2冊購入したのも教育の萌芽と見なされている。このうち1冊はもちろん牧師のものだが、もう1冊は助手の手に渡り、合唱が奨励された。最初の本当の学校は、1600年頃の世紀の変わり目にあったことが証明されている。その教師について1599年にすでに最初の記録が遺されている。
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