護国卿として
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「オリバー・クロムウェル」の記事における「護国卿として」の解説
中産市民は王党派による反革命の可能性もあったため、クロムウェルの事実上の独裁を支持した。クロムウェルは1653年4月20日に軍と対立したランプ議会を解散、続けて成立させたベアボーンズ議会も急進派による改革で混乱が生じると12月12日に解散、12月16日に終身護国卿(護民官)となり、次のような対外政策を展開した。 1654年にオランダと講和し(ウェストミンスター条約(英語版))、スウェーデン、デンマーク、ポルトガルと通商条約を結ぶとともに、スペインに対する攻撃を開始し(英西戦争(英語版))、ウィリアム・ペン率いる艦隊をイスパニョーラ島に派遣、1655年にジャマイカを占領し、同年フランスと和親通商条約を結び、1657年に同盟(パリ条約)に発展させ、1658年のフランス・スペイン戦争(西仏戦争)では、砂丘の戦いで英仏連合軍がスペインに勝利、ダンケルクを占領した。 一方、国内においては成文憲法である『統治章典』に基づき1654年9月3日に招集した第一議会を1655年1月22日には解散させ、全国を11軍区に分けて軍政監を派遣し、純然たる軍事的独裁を行った。だが1656年9月17日に第二議会を招集、翌1657年3月に統治章典を修正した『謙虚な請願と勧告』が議会で成立すると5月に受諾し軍政監を廃止。議会によって国王への就任を2度にわたって望まれるが、これを拒否して護国卿の地位のまま統治にあたった。同年にユダヤ人の追放を解除し、これによって1290年7月18日のエドワード1世による追放布告(英語版)以来350年ぶりにユダヤ人が帰還した。 1658年にクロムウェルはインフルエンザで死亡し、ウェストミンスター寺院に葬られた。跡を継いだ息子のリチャード・クロムウェルは翌1659年に第三議会を召集したが軍の反抗を抑えきれず、議会解散後まもなく引退し、護国卿政は短い歴史に幕をおろした。
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