護佐丸の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 08:06 UTC 版)
勝連城を根拠地とする茂知附按司が勢力を拡大すると、尚巴志は1430年、中城の地領を護佐丸に与え、築城を命じた。さらに息子の尚布里を江洲、尚泰久を越来に置き、勝連を牽制した。護佐丸は、与勝半島を指呼に望む中城城の改築にかかり、1440年、尚忠が第3代国王となると、王命で同年に完成した中城城に居城を移した。 阿麻和利が茂知附按司を滅ぼし、対外交易で実力を蓄えた。1454年、王位継承権をめぐる王族の内乱「志魯・布里の乱」が起きて尚布里が失脚、尚泰久が第6代国王として首里に入ると、勝連城の阿麻和利の掣肘は護佐丸の双肩にかかった。護佐丸の娘を正室としていた尚泰久王は、長女百度踏揚を阿麻和利に降嫁させ、護佐丸・阿麻和利の有力按司との姻戚関係を後ろ盾に、内乱で失墜した王権の復興を図った。 しかし1458年8月、護佐丸・阿麻和利の乱が勃発した。王府史書によると、阿麻和利に対抗するため護佐丸が兵馬を整え、これを阿麻和利が護佐丸に謀反の動きがあると王府に讒言。尚泰久王が阿麻和利を総大将に任じ、中城城を包囲すると、王府軍と聞いた護佐丸は反撃せず、妻子とともに自害した。仇敵の護佐丸を除いた阿麻和利は首里を急襲するが、百度踏揚が勝連城を脱出して王府に変を伝え、阿麻和利は王府軍によって滅ぼされたと伝えられる。
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