ヨーク公妃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/11 05:16 UTC 版)
イングランド北部ダラムのレイビー城で生まれた(後にその美貌から「レイビー城の薔薇」と呼ばれた)。セシリーが10歳の時(1425年)、父は彼女を当時14歳のヨーク公リチャード(後の薔薇戦争ではヨーク派の指導者となる)と婚約させた。そのすぐ後に父は戦死したが、婚約は解消することなく、1437年に2人は正式に結婚した。2人の娘のアンはノーサンプトンシャーで1439年8月に生まれた。 ヨーク公が1441年にフランス総督になってルーアンに赴任した時、セシリーは夫について行った。2月に息子ヘンリーが生まれたが、すぐ後に死んだ。 未来の国王であるエドワードは、ルーアンで1442年4月28日に生まれ、すぐに洗礼を施された。エドワードの誕生日については、ヨーク公不在の時期にあたるため、後にエドワードがヨーク公の実子ではないという議論がなされることになる。実際の所はどうなのかは不明であるが、事実としてエドワードは早産であり、早逝の恐れがあったので急いで洗礼を施された。 1453年頃、ヨーク公がサマセット公エドムンド・ボーフォート(セシリーの母方の従兄)の権勢に憤慨し始めた頃に、セシリーはヨーク公の代理として国王ヘンリー6世妃マーガレット・オブ・アンジューと話をした。ヘンリー6世がその年遅くに神経衰弱をこうむった時、ヨーク公は自身を摂政(護国卿)として認めさせた。 薔薇戦争の勃発後、ヨーク公がアイルランドやヨーロッパ大陸に逃亡した時でも、セシリーはラドローに残った。おそらく姉のアン・ネヴィル(バッキンガム公ハンフリー・スタッフォードの妻)に保護されていたのだろう。同時に彼女は、内密にヨーク派のためにも活動を行っていた。 ラドフォード橋の戦いにおける大敗でヨーク派が瓦解して、ヨーク公自身もアイルランドに逃亡していた1459年11月、ヨーク派の処遇を検討する議会が開かれた。セシリーは夫の嘆願のためロンドンに出向いた。当時の記録によると、もしヨーク公が8日以内に議会に出頭すれば恩赦にするよう、国王を説得していたと言われる。結局ヨーク公の所領は没収されたが、自身と子供たちのために年間600ポンドの年金を受け取ることに成功した。1460年1月、彼女はケントを訪問し、ケント派の代表者と来るべき同盟について会談した。 ノーサンプトンの戦いでのヨーク派の大勝を受けて、1460年7月にセシリーはロンドンに移り住み、子供たちやジョン・パストンと一緒に住んだ。10月に夫が公式にヘンリー6世の王位継承者になると、セシリーも次期王妃になり、史官ジョン・ハーディングからイングランド編年史のコピーを受け取りさえした。 ところが、12月30日のウェイクフィールドの戦いでヨーク派は惨敗する。ヨーク公のほか、次男のラトランド伯エドムンド、セシリーの兄ソールズベリー伯も戦死した。セシリーは幼い息子たちをブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)の宮廷に預ける。これによってブルゴーニュはヨーク派と同盟を結ぶことになる。
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