ヨーク史概観
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 13:24 UTC 版)
ヨークの歴史の象徴、ヨーク大聖堂 ジョージ6世の「ヨークの歴史はイングランドの歴史である」という言葉に象徴されるように、ヨークにはイギリス史が凝縮されている。 ヨークは古代ローマ時代にウーズ川の畔に建都された城塞都市である。先住民を追い払って征服したローマ人は「ブリタニア」を南北2つに分割し、南の「上ブリタニア州(Britannia Superior)」の州都を「ロンデニウム(ロンドン)」、北の「下ブリタニア州(Britannia Inferior)」の州都を「エボラクム(ヨーク)」に置いた。「エボラクム」の語源には諸説あるが、「エボラ(毒矢の材料になるイチイのこと)」+「クム(場所)」とするのが一般的である。ヨーク競馬場の「イボア開催」や「イボアハンデ」の「イボア」は「エボラ-クム」の「Ebor-」を英語風に発音したものである。エボラクムは北の「カレドニア(スコットランドの古名)」の異民族に備えるための最前線基地で、ローマ軍団が駐屯していた。 5世紀のはじめにゲルマン民族の大移動の影響でローマが衰退して、ローマ人が去ると、かわってイングランドにやってきたのがアングル人やサクソン人である。彼らはいくつかの王国を作り、七王国時代と呼ばれる中世の戦国期にはいった。ヨークはノーサンブリア王国の王都になった。しかしやがてバイキング(デーン人)が侵入してこれらの王国も衰えた。11世紀に入ると今度はノルマン人がやってきて王位を奪い、全土を制圧した(ノルマン・コンクエスト)。王はイングランドを教化するにあたり、北にヨーク大聖堂、南にカンタベリー大聖堂を置き、全土を2分して治めさせた。 ヨークは支配者が変わる度に町の呼び名が変わっていった。「エボラ・クム」はサクソン風に「エオフォ・ウィク」となり、そのあとデーン風の「ヨルヴィーク」となり、ノルマン風の「ヨーク」に落ち着いた。15世紀の薔薇戦争では「白薔薇」のヨーク家の中心地となった。イギリス王室では伝統的に「第二王子」がヨーク公(デュークオブヨーク)を名乗ることになっており、政治、宗教、軍事、文化、商業の観点でヨークは長い間「イギリス第二の都市」だった。近代に入ると産業革命によって各地に新興都市が発展し、ヨークは「第二の都市」の座を失い、「古都」となっていった。
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