エボラクム
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ヨーク・ミンスター外にあるコンスタンティウス大王像
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別名 | Eburacum |
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所在地 | イギリスのノース・ヨークシャー のヨーク |
地域 | ブリタンニア |
座標 | 北緯53度57分42秒 西経01度04分50秒 / 北緯53.96167度 西経1.08056度座標: 北緯53度57分42秒 西経01度04分50秒 / 北緯53.96167度 西経1.08056度 |
種類 | 城、入植地 |
歴史 | |
建設者 | クィントゥス・ペティリウス・ケリアリス |
完成 | 71年 |
時代 | ローマ帝国 |
追加情報 | |
関係考古学者 | L. P. ウェンハム |
エボラクム (Eboracum)はカストラ(軍事防衛拠点)であり、後にローマの属州であったブリタンニアのローマ植民市となった場所である。 最盛期には北ブリテンで最も大きい町であり、州都であった。 この場所は西ローマ帝国の衰退後も人が住み続け、最終的に今日ではイギリスのノース・ヨークシャーのヨークとなった。
2人のローマ皇帝がこの地で没した。セプティミウス・セウェルスが211年に、コンスタンティウス・クロルスが306年にそれぞれ亡くなった。
エボラクムという名前に関する最初の言及は95~104年の間になされた。それは現在のノーサンバーランドにあったローマのウィンドゥランダ要塞から発見された木製の筆記用具で書かれた「Eburaci」という集落名の記載である[1]。 ローマ時代、この地の名前はEboracumともEburacumとも書かれた[1]。
「エボラクム」の名は「イチイの木の場所(英語:yew tree place)を意味する共通ブリトン語「*Eburākon」が由来である[2]。 「イチイ」を表すケルト祖語の単語「*ebura」(古アイルランド語:iber「イチイの木」、アイルランド語:iúr(古い形はiobhar)、スコットランド・ゲール語」:iubhar、ウェールズ語:efwr「セイヨウイソノキ」、ブルトン語:evor「セイヨウイソノキ」)は、所有格接尾辞*-āko(n) 「持っている」(ウェールズ語:-og、ゲール語:-ach)[3]が組み合わさったてできた、「イチイの木があるところ」という意味を指す(ウェールズ語:efrog、アイルランド語:eabhrach/iubhrach、スコットランド・ゲール語:eabhrach/iobhrach)。 この地名はラテン語化され、ケルト語の中性主格の接尾辞-onがラテン語の-umに置き換えられた。これは、ガリアやルシタニアで一般的に使われていた(例:en:Ebora Liberalitas Julia)。 フランスの様々な地名(エヴリー、イヴリー=シュル=セーヌ、イヴェリー、イヴォリーなど)は全て*eburacon / *eburiaconから取られている。例えばイヴリー=ラ=バタイユ(Ebriaco、1023~1033年)やイヴリー=ル=タンプル(Evriacum、1199年)[4]、エヴリー(Everiaco、1158年)などが挙げられる[5][3]。
ドイツの言語学者ピーター・シュリイバーはこう反論した。「eburosはイチイの木を意味しない」と。そして代わりに「イノシシの牙」を指すラテン語ebur(英語:ivory)が由来であると言った[6]。
起源
ローマのブリタンニア侵攻は43年に始まったが、ハンバー川の向こうへの進出は70年代前半までなされなかった。 これはこの地域にいた、ローマ人によりブリガンテス人として知られていた人々が、ローマの属国となったためである。 ブリガンテス人の主導権が代わりローマへの敵対心が強まった時、ローマの将軍クィントゥス・ペティリウス・ケリアリスは第9軍団ヒスパナを率いてリンカンから北へ向かい、ハンバー川を渡った[7]。 エボラクムはケリアリスと第9軍団が、ウーズ川とフォス川との結節点近くの平地に軍営施設(カストラ)を築城した71年に建設された。 同年、ケリアリスはブリタンニア知事に任命された[8]。
軍団は当時最大で5,500人の男子で構成されており、間違いなく彼らから利益を享受する目的でエボラクムへ集まった進取的な地元住民に、新たな貿易の機会を与えた。 その結果として、城塞周辺の特に南西側に、恒久的な居住地が発達した。 民間人たちはウーズ川の反対側にも定住した。当初は、エボラクムから南西へ向かう本道沿いに定住していた。 2世紀後半から急速に発展した。街道が敷かれ、公共施設が建ち、川の上の急斜面には民家が段々に広がった。
軍事
その基盤から、エボラクムの軍営施設(カストラ)はウーズ川北岸の北東・南西方向に沿って整備された。 その広さは古代ローマの計量単位で1,600 × 1,360(474 × 403m)[9]であり、50エーカー(200,000㎡)の範囲に広がっていた[9]。 カストラを通る街道の基本構成は推定されているが、「ウィア・プラエトリア」や「ウィア・デクマナ」、「ウィア・サグラリス」に関するいくつかの証拠もある[9]。 城塞に関する現在の理解の大半はL. P. ウェンハムによる大規模な発掘調査から得られたものである[10][11][12]。
城塞の構成もローマ軍団の城塞の標準に従っており、四角の防御境界線内に木製の建物が建てられていた[13]。 元々は緑の木の基盤上にあった芝でつくられていたこれらの防御は、第9軍団によって71〜74年の間に建設された。 後にこれらは新しいオーク材の基盤上に芝生を敷いた粘土の塚に置き換えられ、おそらく、木製の胸壁が追加され、その後石灰岩の壁と塔に置き換えられた[14]。 元々の木製の陣営はグナエウス・ユリウス・アグリコラにより81年に改装され、その後107〜108年の間に全て石造りで再建された。 城塞はそのすぐ後、おそらく118年頃に第6軍団ウィクトリクスが駐屯した[15]。
城塞における複数の段階の再編と再建が記録されている。 石での再建は2世紀前半にトラヤヌスのもとで始まったが、完了するまでにセプティミウス・セウェルスの治世初期までの100年以上の時間がかかった[16]。 推定では48,000㎥の石材が必要であったとされ[16]、それはローマ人居住地のカルカリア(タドキャスター)から運ばれたマグネシアン石灰岩から成っていた[17]。
皇帝の訪問

122年、ハドリアヌス帝が巨大な壁で国境をつくる計画のために北へ向かう途中、この地に立ち寄ったという証拠がある。 彼は既存の守備隊の代わりに第6軍団を連れてきた、もしくは事前に送り込んだ。 208年、セプティミウス・セウェルス帝はエボラクムを訪れた[18] 。そしてカレドニア(この城塞の壁はおそらく彼の滞在中に再建されており、東側から見るとこれはほぼ完全な高さで立っていることが分かる)攻略のために彼の基地をつくった。 少なくともセウェルスが死に彼の息子のカラカラとプブリウス・セプティミウス・ゲタが跡を継いだ211年まで、皇帝の宮廷はヨークを拠点とした[18] 。 伝記作家カッシウス・ディオは、セウェルス帝は遺言として2人の息子に「互いに認め合い、兵士を豊かに死、他の全てを無視せよ」と伝えたと記述している[19]。セウェルスは死後まもなく、エボラクムにて荼毘に付された[18]。 またディオは葬式について「軍服を着た彼の遺体は火葬場に置かれ、誉れの証として兵士たちと彼らの息子たちはその周りを走り回り、兵士の贈り物として、捧げ物を持った者たちは痛いの上に置き、息子たちは火を付けた」と記述している[18](火葬の場所は記録されていない。現在のヨーク西にある、「セウェルスの丘」として知られる丘は、古物収集家たちよってセウェルス火葬の場所であったと関連付けられている[20]。しかし、どの考古学調査もこの主張を裏付けていない)。
3世紀後半、西ローマ帝国皇帝は政治的・経済的混乱を経験し、ブリタン二アはしばらくの間ローマから独立した簒奪者たちにより支配されていた。 最後の簒奪者たちを倒した後、コンスタンティウス・クロルスがエボラクムへ赴き、この地で亡くなった2人目の皇帝となった。 城塞の駐留部隊たちは即座に彼の息子コンスタンティウスを皇帝として宣言させた。 コンスタンティウスが唯一の帝国支配者となるまで18年かかったが、彼はエボラクムに関心を寄せ続けたと思われ、多角形面の間隔塔と(そのうちの1つ「マルタングラー・タワー」は現在も残っている)2つの角塔を含む城塞の南西前線の再建は彼の功績であると考えられている。 植民市において、コンスタンティウスの治世は繁栄の時代であり、石造りの家々が立ち並んでいた当時の町が数多く発見されている。
政治
ローマにおいて、エボラクムは北ブリタンニアにおける主要な軍事基地であった。3世紀にブリタンニアが分割された後は、北ブリタンニア(下ブリタンニア)の首都となった。 植民市となる237年までに、エボラクムはローマの都市が到達し得る最高の法的地位を有していた。ブリタンニアに植民市は4つのみであり、エボラクム以外は退役軍人のために築かれた都市である[21] 。 この皇帝からの寵愛の証は、おそらく北部における最大の都市であり下ブリタンニアの首都としてエボラクムが認識されていたことを示している。 エボラクムが自治権を獲得した頃、商人や熟練兵士を含む在地貴族から構成される議会が設立された[22]。 296年、下ブリタン二アは同等の地位を持つ2つの州に分けられ、エボラクムはブリタンニア・セクンダ(第2ブリタンニア)の州都となった。
文化

賑やかな港かつ州都として、エボラクムはローマ帝国全土から人々が行き交う国際都市であった[23]。
食文化
穀物や畜産物の利用に関する実質的な証拠はエボラクムで見ることができる[24] 。
1世紀に発生したウーズ川北岸の城塞外にあったコニー・スリートからの倉庫火災により、当時最も食べられていた穀物はスペルトコムギ、次いで大麦であることが分かっている[24] 。 肉は牛や羊、山羊、豚のものを主に食べていた[24]。
ローマ・ブリトン文化の「hunt cups[25] 」に見られる狩りの一幕から、狩猟は人気の娯楽であり、野ウサギや鹿、イノシシの狩猟によって食事がまかなわれていたことを示している。
様々な調理器具(モルタリウム)がエボラクムから発掘された[25]。そしてヘスリントンとスタンフォード・ブリッジの植民市外の農村遺跡で穀物の加工に使われた大きな石臼が見つかった[24]。
食べ物の儀式的な使用について、墓石に書かれた故人が来世で理想的な姿として描かれるシーンとして、ソファに横たわり、食事とワインを供される場面が表現されている。 ユリア・ウェルウァやマンティ二ア・マエルキア、アエリア・アエリアナの墓石にはそれぞれ食事の場面が描かれている[26] 。 さらに、トレントホルム・ドライヴから発掘された土葬のいくつかには、故人の副葬品として陶器の壺に鶏の卵が入れられていた[26]。
宗教

エボラクムの人々における古代ローマの宗教の様々な証拠が見つかっている。これらにはマールスやヘルクレース、ユーピテル、フォルトゥーナへの[[[祭壇]]などがある。 参照件数において、最も有名な神々はエボラクムの霊的な存在(ゲニウス)と地母神であった[27] 。 また、地元の神々に関する証拠もある。 さらに、東の神々に対する信仰を見せる証拠が、ヨークの発掘作業中に発見されている。 例えば、軍人の間で有名だったミトラ教崇拝の証拠が発見されており、その中にはミスラによる雄牛狩りやミトラ教における悪神アリーマニウスへの献身が描かれている彫刻が含まれている[28] 。 ミクルゲートにあるミトラ教のレリーフ[29]はミトラ教の神殿の位置がコロ二アの中心にあったことを示している[30]。 他には、ヘレニズム時代の古代エジプトの神セラピスに捧げる神殿を第6軍団のクラウディウス・ヒエロニミアヌスが建立したという証拠もある[31]。 エボラクムでは、他にもテーテュース[32]やウェテリス][32]、ウェヌス[33]、シルウァーヌス[34]、テウタテス、クノウビス、帝国のヌーメン(神性)が信仰されていた。
エボラクムにはキリスト教徒のコミュニティもあったが、これが最初に成立した時期は不明であり、考古学的には事実上記録がない。
このコミュニティに関する最初の証拠はエボラクム司教エボリウスが311年のアルル公会議に出席したと書かれた書類である[35] 。 エボラクムの司教管区はラテン語で「エボラケンシス」と呼ばれ、管区から来た司教は第1ニカイア公会議やセルディカ公会議、アリミヌム公会議に出席した[36]。 ヨーク大主教の公式名として、この名前は略称「Ebor」と記録されている[15]。
死と埋葬

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ローマ支配下のヨークにおける墓地は、居住区外のブリタン二アのローマ街道を辿っていた。トレントホルム・ドライヴとマウントにあるヨーク駅の下におけるヤード城(後のクリフォード塔)の発掘調査[37]では土葬でも火葬両方の形で葬られた人間の遺体という重要な証拠が見つかった。 ヨーク駅下にある墓地は1839~1841年、1845年、1870~1877年の鉄道工事前に発掘された[38]。 古代ローマの石棺サルコファガスが、この段階の発掘調査に発見された[39][40]。 サルコファガスを用いた土葬では、遺体を石膏で包み、鉛の棺に入ることが多い。 これらの組み合わせにはバリエーションがある。 石膏の型が損傷なく発見された場合、故人の遺影を布製の覆いの中に入れることが多い[37]。 現存する大人と子ども両方の例では、埋葬前に遺体を包むために使用された布地の種類が確認できるが、通常は平織りの布が使用されている[37] 。 エボラクムから発掘された数多くのサルコファガスは多くの鋳型を提供しており、中には布に石膏が付着したままのものもあった[37] 。 ヨークにある2つの石膏埋葬地では、乳香との証拠と、葬式の一部として使用されたカイノキ属(マスティック)の樹脂製の明確な証拠が発見されている[41]。 これらの樹脂は、地中海周辺やアフリカ東部、古代において「樹脂王国」として知られていたアラビア半島南部からエボラクムへ交易によりもたらされた[42][要ページ番号] 。 これがローマ時代の葬儀の場における芳香性樹脂の使用の最北端である[41]。
2010年のヨークシャー博物館下の建築工事に先立って行われた発掘調査では、一人の男性の骨が見つかった。この男性は、エボラクムの剣闘士として死亡した推測される、という重大な病理を示していた[43][44]。
経済
エボラクムにおける軍隊の存在は初期の経済発展における原動力となった。 この初期段階では、エボラクムは計画経済を指示した。5,000の軍の駐屯地の需要を満たすため、城塞外に建てられた工房が成長していった。cing military equipment in Tanner Row. 3世紀半ばまで軍用陶器などの生産が行われており、軍用のタイルをつくる窯が、アルドウォークのピーズホルムグリーンやコッパーゲートのガラス工房、タナー・ロウの軍用装備品をつくる金属製品や革製品の工房から見つかっている[21]。
ローマ時代、エボラクムはウィットビー黒玉の主要な製造拠点であった。 この黒玉はラテン語では「ガガテス」として知られ、3世紀初期から宝石の材料として使用されてきた[45][要ページ番号]。また、この地からブリタン二アを通ってヨーロッパへと輸出された[46]。 これらの例はヨークにおいて、指輪やブレスレット、ネックレス、夫婦とメドゥーサが描かれたペンダントに見ることができる[45]。 ローマ世界には少なくとも25個の黒玉製ペンダントがあり[47]、その内6個はエボラクム製であると知られている。 これらはヨークシャー博物館に保管されている。
道路

エボラクム外に続くブリタン二アにおけるすべての元来のローマ街道の真の経路は知られていない[48]。しかし、11の道路が提案されている。[48] 。 都市から北西方向にクリフトンを通ってカタラクトニウム(現在のキャッテリック)の跡地へ向かうデレ・ストリートやペトゥアリア(現在のブロウへ向かうケイド・ロード、リンドゥム(現在のリンカン)へ向かうエルミン・ストリートなどが知られている[48]。 城塞とウーズ川間にある城塞の南部の壁への迂回道路は正確には計画されていなかったが、その経路はヨーク博物館庭園下を通ると推測されている[48]。
川
ウーズ川とフォス川は重い物を運搬するための重要な拠点を提供していた。 フォス川の東岸に2つの埠頭が存在すること[49] がこの可能性を裏付けている。 ウーズ川北東岸の現在のコニー・ストリート下にある木造建築物にある穀物の大きな貨物は[50]、川を経由して物品を運ぶ倉庫であった可能性がある。
ローマ後のヨーク
5世紀初期のブリテンにおけるローマ支配の終焉はブリテン全土に重要な社会的・経済的転機を迎えさせた。 「エボラクム」の名が確認できる最新の碑文は237年のものであるが、その後も居住区が存続していたことは確かである[51] 。 この街における建築工事は4世紀のコンスタンティウス帝やその後の大テオドシウス帝の治世下でも続いた[51]。 地元産のクランベック・ウェアの陶器[52]が4世紀の「エボラクム」に到着した。最も有名な形態は、複雑に装飾された淡い黄色の「パーチメントウェア(羊皮紙陶器)」で、鮮やかな赤色で描かれている。 コンスタンティウス帝の宗教政策の影響で、ブリタン二アにおいてキリスト教がより発展した。「エボリウス」と呼ばれるヨーク司教がここに記録されており、キー・ローで装飾されたいくつかの装飾品で知られている[51]。 さらに、埋葬墓の小さな骨の銘板には「SOROR AVE VIVAS IN DEO(姉妹よ、神と共に生きられますように)」と書かれている[53]。
4世紀後半、砦と植民市両方の構成に変化が起きた。これはこの地の軍駐屯地の家庭生活における社会的変化を反映していると考えられており、彼らは妻や子ども、または他の市民を含む、より小さな家族単位で生活していた可能性がある[51]。
ローマ時代のヨーク再発見
エボラクムの再発見と現代の理解は17世紀に始まった。 著名人がこの過程に参加した。 マーチン・リスターは、王立協会に提出した1683年の論文でマルタングラー・タワーがローマ時代のものであると初めて承認した人物である[54]。 ジョン・ホースリー著"Britannia Romana"(1732年)や"The Roman Antiquities of Britain"(同年)では、ローマ時代のヨークに関する章を含んでおり、ローマ時代のヨークに関する最初の本であるフランシス・ドレイクの"Eboracum"(1736年)に少なからず影響を与えた[55]。 ドレイクは王立協会の"Philosophical Transactions"にも寄稿した[49]。
チャールズ・ウェルベローヴェド牧師はヨークシャー哲学協会の創設者であり、彼が亡くなる1858年までヨークシャー博物館の学芸員を務めた。
彼は『Eboracum or York under the Romans』という題名の体系的な説明を1842年に出版した[49]。これには1835年の発掘調査における発見の一次記録が載っている[49]。 ウィリアム・ハーグローヴは、彼の新聞『Herald』と『Courant』の記事出版を通じて、多くの新しい発見に世間の注目を集めさせた[49]。そして、偶然見つけたものに関するガイドシリーズを出版した。
最初の大規模発掘調査は、1920年代、グラスゴー大学のS. ミラーによって行われ[49]、防御施設に焦点が当てられた。
考古学的遺跡
過去2世紀で相当量の物理的遺跡がヨークで発掘されている[56]。ヨークの城壁、軍隊用の浴場や本部、市民の家、工房、倉庫、墓地などが発見された。
目に見える遺構
- ローマのカストラのプリンキピア(司令部)の北側にあるバシリカ建築の遺構は、ヨーク・ミンスターのアンダークロフト(地下室)で見ることができる。1本の柱が発掘調査で見つかっており、現代のコンスタンティウス帝の彫像はその外にある[57]。
- ヨークの城壁のマルタングラー・タワーはローマ軍団の城塞の南西の角塔を基礎とした多期間構造である。これはヨーク博物館庭園の一部である。
- 古代ローマの公衆浴場 (ヨーク)と博物館(聖サンプソン・スクウェア)では軍用浴場施設の遺構が展示されている[58]。
さらに見る
参考文献
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脚注
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関連リンク
- エボラ-クムのページへのリンク