ヨーク家の勝利
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「リチャード・ネヴィル (第16代ウォリック伯)」の記事における「ヨーク家の勝利」の解説
1459年9月、ウォリックはブロア・ヒースの戦いでランカスター家を破って間もないソールズベリー伯及びヨーク公と合流するため、イングランドへ渡航し、ラドローを目指し北上した。ラドフォード・ブリッジの近くで彼らの軍はランカスター軍に打ち負かされた。これはアンドリュー・トロロップの指揮下にあったウォリックのカレー派遣部隊が敗北したことに一因がある。これが明らかになったとき、兵士の大部分は王に武器を向けることに気乗りしなかったのである。国外に逃亡することを余儀なくされたヨーク公はダブリンに向かい、ウォリックとソールズベリー伯はヨーク公の息子マーチ伯エドワード(後のエドワード4世)とともにカレーへ落ち延びた。ウォリックにかわってサマセット公ヘンリー・ボーフォートがカレー総督に任命されたが、ヨーク側は何とかこの要塞を維持した。 1460年3月、ウォリックは今後の計画について協議するためアイルランドのヨーク公を訪ね、その後カレーに戻った。6月26日、彼はソールズベリー伯、マーチ伯とともにサンドウィッチに上陸し、ロンドンへ向け行軍した。ソールズベリー伯はロンドン塔の統制を任され、ウォリックはマーチ伯を伴って国王の追跡を行った。7月10日、ノーサンプトンにおいて国王は捕われ、バッキンガム公その他は戦死した。 9月になりヨーク公はアイルランドから帰還した。そしてこの年の10月議会において、ヨーク公は玉座の前まで歩み出て、手で触れるという挙に出た。簒奪を示すこの振る舞いは、議会の出席者に対し衝撃を与えた。ウォリックがこのヨーク公の計画を事前に知っていたかははっきりしないが、前年3月にアイルランドにおいて両者の間に合意があったことは推測される。しかしまもなく、この政権転覆が議会の貴族たちにとって受け入れがたいものであることが明確になり、妥協案が合意された。1460年10月30日に成立した合意令(Act of Accord)は、ヘンリー6世がその死まで王位にとどまることを認めるが、その息子エドワードの王位継承権は認められない。代わりにヨーク公が王位を継承し、それまでヨーク公は摂政の任にあたるというものであった。 この妥協案は双方にとって満足いくものではなく、さらなる紛争は避けがたいものであった。12月30日のウェイクフィールドの戦いで、ヨーク公とソールズベリー伯はヨーク公の次男ラットランド伯エドムンド、ウォリックの弟トマスとともに戦死した。ウォリックは北方に行軍したが、第二次セント・オールバンズの戦いで敗北し、逃亡を余儀なくされた。その後ウォリックは、ヨーク側の新たな王位請求者となったエドワード(モーティマーズ・クロスの戦いで重要な勝利を収めたばかりであった)の軍と合流した。 マーガレット王妃が次の行動を躊躇している間に、ウォリックとエドワードはロンドンに急行した。ロンドン市民はランカスター軍の粗暴な振る舞いに恐れおののいており、ヨーク家側に同情的であった。3月4日、エドワードは速やかに召集された議会においてエドワード4世を宣した。彼は国王の座を確固たるものとするため軍を北方に進め、ヨークシャーのタウトンでランカスター軍と衝突した。ウォリックはその前のフェリブリッジの戦いで足を負傷していたため、このタウトンの戦いでは大した役割は果たせなかった。 このイングランド史上まれな血なまぐさい戦いはヨーク側の完勝に終わり、ランカスター方の重要人物、ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシー、アンドルー・トロロップといった人々が戦死した。マーガレット王妃はヘンリー6世やエドワード王太子とともに辛くもスコットランドへ落ちていった。エドワードは戴冠式のためにロンドンへ帰還し、ウォリックは北方の鎮定のためとどまった。
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