ヨーク派との戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 15:31 UTC 版)
「マーガレット・オブ・アンジュー」の記事における「ヨーク派との戦争」の解説
1455年にヨーク公とその支持者たちは反撃を企て、第一次セント・オールバンズの戦いでサマセット公は戦死、ヘンリー6世は捕らえられた後、ヨーク派の手でロンドンへ帰された。政権は再びヨーク公が握ったが、マーガレットは自ら宮廷派を掌握してヨーク公と人事と政治方針を巡り対立した。全面衝突を避けたいヘンリー6世の意向で両者は妥協していたが、マーガレットは宮廷をコヴェントリーへ移し、ヨーク公も貴族紛争の調停で勢力拡大して互いに軍備を増強、1459年6月に召集された評議会でマーガレットがヨーク派を弾劾して、9月のブロア・ヒースの戦いで武力衝突となった。 マーガレットは精神的に不安定であったヘンリー6世に代わって、サマセット公ヘンリー・ボーフォート(エドムンド・ボーフォートの息子)、ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシー、ペンブルック伯ジャスパー・テューダー(ヘンリー6世の異父弟)、エクセター公ヘンリー・ホランドら有力貴族と共にランカスター朝を支えた。精神不安定な夫を差し置いて、ランカスター派の旗印となって自ら戦争の指揮を執り、王はヘンリーではなくマーガレットだとすら言われた。 10月のラドフォード橋の戦いで勝利、ヨーク公とソールズベリー伯リチャード・ネヴィル、息子のウォリック伯リチャード・ネヴィルらをイングランドから追放した。翌1460年6月にヨーク派がイングランドへ戻り、7月のノーサンプトンの戦いでヘンリー6世を捕らえられるが、マーガレットは息子エドワードを連れて抵抗を続け、スコットランドからの支援を取りつけ、12月のウェイクフィールドの戦いでヨーク公とソールズベリー伯を討ち取った。捕虜としたヨーク派の騎士や歩兵らへの処罰は凄惨を極め、後にシェイクスピアは戯曲『ヘンリー六世』で、「あのフランスの雌狼め!」とマーガレットを罵る言葉を織り込んだ。 しかし、ヨーク公の長男・マーチ伯エドワードは生き残ったヨーク派を結集して、1461年2月2日のモーティマーズ・クロスの戦いでペンブルック伯のランカスター軍を破った。マーガレットは17日に第二次セント・オールバンズの戦いでウォリック伯に勝利してヘンリー6世を救出したが、ロンドンへ入れず北へ撤退した。代わってロンドン入りしたマーチ伯が国王エドワード4世に即位したことによってヨーク派が有利になり、3月29日のタウトンの戦いで大敗してノーサンバランド伯が戦死、ヘンリー6世と息子エドワード、サマセット公、エクセター公らと共にスコットランドへ逃れた。 その後はイングランド北部を拠点に抵抗を続け、1462年にフランスへ渡り従兄のフランス王ルイ11世から支援を取りつけ、ピエール・ド・ブレゼ率いる800人の小規模な援軍と共に戻ったが、イングランドへ戻っても南下できないばかりか拠点をヨーク派に次々と落とされ、翌1463年にアニック城が陥落するとエドワードと共にフランスへ亡命した。1464年のヘクサムの戦いでサマセット公が敗死、1465年にヘンリー6世がヨーク派に捕らえられてロンドン塔へ投獄され、ランカスター派の抵抗はほぼなくなった。
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