ヨーク派の一員として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/02 06:18 UTC 版)
「マーガレット・オブ・ヨーク」の記事における「ヨーク派の一員として」の解説
1483年4月9日、兄エドワード4世が崩御する。遺児であるエドワード5世が戴冠式を挙げる前に、王の叔父(マーガレットの弟)であるグロスター公リチャード(後リチャード3世)に王位を簒奪された。リチャード3世に対する叛乱から、薔薇戦争の第3次内乱が勃発した。リチャード3世は、1484年に王妃と王太子を相次いで亡くし、1485年8月22日にボズワースの戦いでリッチモンド伯ヘンリー・テューダー(ヘンリー7世として即位)に敗れ、戦死する。こうしてテューダー朝が興った。 するとマーガレットはヨーク派(Yorkist)として、ヘンリー7世の王位を奪おうとする全ての者(ラヴェル卿(英語版)のような家臣だけでなく、ランバート・シムネル、パーキン・ウォーベック(英語版)といった僭称者も含まれる)の支援者になった。ウォーベックは明らかにヨーク公リチャード(エドワード4世の息子でエドワード5世の弟)ではなかったが、マーガレットは彼を自分の甥であると公認した。 その結果、ヘンリー7世には、ハプスブルク家及びブルゴーニュへ接近する必要性が生じ、これがスペイン王女カタリナとアーサー・テューダーの婚姻の背景となった(詳細はキャサリン・オブ・アラゴン#政略結婚の背景を参照)。カタリナは1501年にアーサー王太子に嫁し、翌年死別した後、1509年にヘンリー8世と再婚した。
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