ヨーク派の反乱
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「ストーク・フィールドの戦い」の記事における「ヨーク派の反乱」の解説
ヨーク派の艦隊は1487年5月4日にダブリンに到着した。アイルランドの大法官であるトマス・フィッツジェラルド卿の助けを借りて、リンカーン伯は4,500人のアイルランドの傭兵を、主にカーン(軽武装だが高機動な中世アイルランドの歩兵)として雇った。 アイルランドの貴族と聖職者の支援で、リンカーン伯は1487年5月24日にダブリンでランバート・シムネルを「国王エドワード6世」として王位に就けた。議会が新しい「国王」のために召集されたが、リンカーン伯はダブリンに留まらず、軍隊とシムネルを連れて北ランカシャーに向けて出航した。 1487年6月4日に上陸すると、リンカーン伯の軍にトマス・バウトン卿の指揮するジェントリが合流してきた。5日で300km以上を踏破する一連の強行軍で、ヨーク派陸軍は8,000人の兵に達していた。6月10日の夜、タッドキャスター(Tadcaster)の外れにあるブラムハム・ムーア(Bramham Moor)で、ラベル卿指揮下の2,000の兵がクリフォード卿率いるランカスター派の400の兵に夜間攻撃を仕掛けた。結果は圧倒的なヨーク派の勝利であった。 続いてリンカーン伯はノーサンバランド伯ヘンリー・パーシー指揮下のヘンリー国王の北方軍の裏をかき、6月12日にスクロープ卿の軍に牽制のためにブーサム・バー(Bootham Bar)、ヨークを攻撃させた。スクロープ卿は、ノーサンバランドの軍を襲って、北方に退いた。 リンカーン伯と主力軍は南方攻略を継続した。ドンカスター(Doncaster)の外れで、リンカーン伯はスケールズ卿配下のランカスター軍の騎兵隊に遭遇した。シャーウッドの森を通って3日間の追撃が続き、リンカーン伯はスケールズ卿をノッティンガムに追い込んだ。しかし、それまでの戦いでヨーク派の進軍速度は低下しており、6月14日にノッティンガムに着くやいなや、ヘンリー7世はストレンジ卿の指揮する増援部隊をスケールズ卿に合流させることができた。 6月15日、リンカーン伯がトレント川を渡河した知らせを受けたヘンリー国王は、北東のニューアークに進軍した。6月16日の午前9時頃、ヘンリー国王軍の前衛が、東ストーク村の三方をトレント川に囲まれた丘の稜線の上のヨーク派軍に遭遇した。 ヨーク派はすぐさま攻撃に移ることで高地を放棄した。壮絶な戦いが3時間以上繰り広げられたが、結局は甲冑の薄い(軽装の)アイルランド部隊の死傷者数が数を増していった。 後退が不可能となり、ドイツとスイスの傭兵は最後まで戦い抜いた。ヨーク派の司令官、リンカーン伯、フィッツジェラルド卿、バウトン卿、シュヴァルツは皆戦死した。ただラヴェル子爵だけは脱出し、オックスフォードシャーのミンスター・ラヴェル村にある自宅の隠し部屋の中で餓死している所を、200年後に発見されている。シムネルは捕らえられたが、ヘンリー7世に許され(シムネルが大人の操り人形に過ぎなかったからか)、王室の台所で仕事を与えられた。
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