ヘンリー7世の即位とヨーク派の反乱
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「薔薇戦争」の記事における「ヘンリー7世の即位とヨーク派の反乱」の解説
勝利したヘンリー・テューダーはロンドンに入って議会を招集し、1485年10月30日に戴冠式を挙行した(ヘンリー7世)。11月に開催された議会は、ヘンリー7世の血統についてはさほど詮索せず、ボズワースの戦いの勝利を「神の御意志」として即位の正当性を承認している。 翌1486年1月18日、ヘンリー7世は自らの地位を固めるために、エドワード4世の王女であり、当時最有力なヨーク家系の王位継承権を有していたエリザベス・オブ・ヨークと結婚した。これにより、ヘンリー7世は2つの王家を統合することになり、ライバルだった白と赤の両家の図案を組み合わせた新たなテューダー・ローズを用いるようになった。ヘンリー7世は王位を固めるために、様々な口実をもうけて潜在的な王位継承権者を粛清し、この政策は次代のヘンリー8世にも引き継がれている。 アイルランドで反乱軍に「エドワード6世」として推戴されたシムネル少年。Encyclopedia Britannica, 11th Ed.,1910年 パーキン・ウォーベック。王弟ヨーク公リチャードを名乗り、リチャード4世を僭称した。 多くの歴史家たちはヘンリー7世の即位をもって薔薇戦争の終了としているが、一部の者たちは、ヘンリー7世を打倒してヨーク王家を再興しようとする陰謀がなおも存在していたことから、この内戦は15世紀末まで続いたとしている。ボズワースの戦いの翌1486年、リチャード3世の侍従だったラヴェル卿(英語版)がヨークシャーで挙兵する事件が起こったが、烏合の衆であり戦う前に四散した。 1487年にラヴェル卿はスイス人およびドイツ人傭兵を率いてアイルランドに上陸する。この反乱にはエドワード4世の妹でブルゴーニュ公の未亡人のマーガレットが関与しており、リンカーン伯ジョン・ド・ラ・ポール(リチャード3世の甥で王位継承者に指名されていたが、ヘンリー7世に帰順していた)も加わっていた。反乱軍の指導者たちはランバート・シムネルという少年を、ヨーク系王族の生き残りで最も有力な王位継承権を持つウォリック伯エドワード(クラレンス公の遺児)の替え玉とし、ダブリンにおいて「エドワード6世」として戴冠させた。だが、本物のウォリック伯の身柄は既にヘンリー7世に確保されており、その証明として彼はロンドン市街を行進させられた。反乱軍はランカシャーに上陸してイングランド本土に侵攻するが、7月17日のストーク・フィールドの戦いでヘンリー7世率いる国王軍に撃破され、リンカーン伯は戦死し、ラヴェル卿は逃亡した。捕らえられたシムネル少年は赦免され、宮廷の厨房の使用人とされた。 1491年に、エドワード5世とともにロンドン塔に幽閉され消息を絶った王弟ヨーク公リチャードを名乗る人物(パーキン・ウォーベック)が現れたことにより、ヘンリー7世の王座は再び脅かされた。ウォーベックはフランス王シャルル8世やブルゴーニュ公太妃マーガレット、ハプスブルク家のオーストリア大公マクシミリアンの支持を受けてリチャード4世を名乗り、ネーデルラントやアイルランドで活動し、幾度かイングランドへの上陸を図っている。1496年にはスコットランド王ジェームズ4世の支援を受けてノーランバランドへ攻め込むが、ヨーク派からの支持を得られず失敗した。 1497年にコーンウォールで重税に抗議する反乱が起きた(コーンウォール人の反乱(英語版))。ウォーベックはこの反乱に加わり、エクセターを包囲するが失敗して捕らえられた。彼は同じくロンドン塔に監禁されていたウォリック伯とともに脱獄を図るが失敗し、1499年に2人は処刑された。 ヨーク家の血統を継ぐ者として、バッキンガム公エドワード・スタフォード、リンカーン伯の弟であるサフォーク公エドムンド・ド・ラ・ポール、リチャード・ド・ラ・ポール(英語版)兄弟が残っていた。サフォーク公は1501年に国外へ逃れてヘンリー7世打倒を企てたが、もはや支援する君主はなく、イングランドに送還されて1513年に処刑され、ヨーク派による陰謀はほぼ終息する。 バッキンガム公エドワード・スタフォードはヘンリー8世の時代の1520年に、さしたる理由なく捕らえられ処刑された。リチャード・ド・ラ・ポールはフランス王フランソワ1世の後援を受けてイングランド侵攻を企てるが実現せず、1525年のパヴィアの戦いでフランス軍に加わり戦死している。クラレンス公の娘のマーガレット・ポールはテューダー家と和解して生き残り、ソールズベリー伯位の襲爵を許されたが、1541年にヘンリー8世によって処刑され、テューダー家に対抗しうるプランタジネット家系の王位継承権者は完全に抹殺された。
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