ヘンリー6世の治世
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1422年8月31日にヘンリー5世が急死し、即位した一人息子ヘンリー6世はわずか生後9ヶ月だった。その2ヵ月後にフランス王シャルル6世も死去しており、トロワ条約に従えばフランス王位はヘンリー6世のものとなるが、王太子シャルル(シャルル7世)を擁するアルマニャック派はこれを容認しなかった。 ヘンリー6世にはベッドフォード公ジョンとグロスター公ハンフリーの2人の叔父がおり、年長のベッドフォード公が護国卿(摂政)となり、ベッドフォード公がイングランド不在時はグロスター公がその役割を果たすことになった。だが、グロスター公とランカスター家傍系のウィンチェスター司教ヘンリー・ボーフォート、サフォーク伯ウィリアム・ド・ラ・ポールとが反目するようになった。 1429年、ジャンヌ・ダルクの活躍によってアルマニャック派がオルレアンを解放し、シャルル7世はランスでフランス国王の戴冠式を挙行した。イングランド側もパリを一時的に確保して1431年にヘンリー6世のフランス国王戴冠式を挙行するが、1435年のアラスの和約で同盟者であったブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)がシャルル7世と講和し、イングランドにとって情勢は不利になった。 ベッドフォード公が1435年に死去すると、ヘンリー6世は権力争いが絶えない評議員や顧問官に囲まれることとなった。グロスター公は護国卿の地位を求め、この目的を遂げるべく意図的に庶民の人気を得ようと画策したが、枢機卿ヘンリー・ボーフォートやサフォーク伯の抵抗を受けた。 サフォーク伯はフランス国王との和平政策を推進し、シャルル7世の王妃マリーの姪にあたるアンジュー公ルネの公女マルグリット(マーガレット)とヘンリー6世との結婚を取り決めた。1445年に結婚式が執り行われたが、この和平にはメーヌの割譲が含まれており、イングランド国内では大変に不評だった。1447年、サフォーク侯は和平に反対するグロスター公ハンフリーを反逆罪で逮捕し、その5日後にグロスター公はベリー・セント・エドマンズ(英語版)の牢獄で死去した。 グロスター公を死に追いやったことで逆にサフォーク公の立場が悪くなり、今度はフランスとの和議を破棄して攻撃を行うが、失敗してフランスの領土のほとんどを喪失してしまう。1450年にサフォーク公は失脚し、国外追放の途上で殺害された。 代わってサマセット公エドムンド・ボーフォートが和平派の中心人物となった。一方、1446年まで「フランスおよびノルマンディーの総督」職に就いていたヨーク公リチャード(グロスター公の死により第一王位継承権者となった)が主戦派の中心となり、宮廷とりわけサマセット公を対仏戦において資金と兵士の供給を滞らせたと激しく非難した。 1450年、ケントにおいて民衆暴動が発生した(ジャック・ケイドの反乱)。ヨーク公の従弟を自称するケイドに率いられた一揆軍は政治的要求を掲げてロンドンに向かい、政府軍と衝突するがこれを打ち負かしてロンドンの一部を占拠し、ケント州長官と廷臣1名を殺害した。政府が赦免状を出したことによって暴徒は四散したが、ケイドを含む幾人かが処刑された。 1452年、アイルランド総督に左遷されていたヨーク公リチャードがイングランドに帰還し、サマセット公の排除と政府の改革を求めてロンドンへと進軍した。この時点では彼の大胆な行動に与する貴族は僅かであり、ブラックヒース(英語版)でヘンリー6世と会見するが欺かれて拘禁された。彼は1452年から1453年にかけて投獄されるが、恩赦により釈放されている。 宮廷での不協和音は国内全土にも反映されるようになり、貴族たちは私闘を繰り広げ、国王の権威や宮廷法に対する不服従を示すようになった。北東部でのパーシー家とネヴィル家の争いはこの時代の典型的な私闘で、他の貴族たちも制約を受けることなくこれを行った。多くの場合は、それらは古くからの貴族とヘンリー4世以降に台頭するようになった新興貴族間で戦われた。古くからノーサンバーランド伯の地位を有するパーシー家とこれに比べると成り上がりのネヴィル家との争いはこのパターンであり、これ以外ではコーンウォールとデヴォンで行われたコートネイ家とボンヴィル家の私闘がある。 フランスではシャルル7世がイングランド軍を追い詰め、1453年10月19日、イングランド軍最後の拠点であったボルドーを攻め落した。その後イングランド勢力による反撃が試みられたが、小競り合い程度であることから、これをもって百年戦争は終結したと見做されている。 1453年8月にヘンリー6世は最初の発作に見舞われて精神錯乱に陥り、王子(エドワード・オブ・ウェストミンスター)の誕生さえ認識できない有様となった。マーガレット王妃は自らを摂政にするよう要求したが容れられず、貴族院の指名によりヨーク公が護国卿に任命された。彼はすぐにこの権力を大胆に行使し、サマセット公を投獄するとともにパーシー家のノーサンバーランド伯(ヘンリー6世の支持者)と私闘を行っていた彼の同盟者ネヴィル家(義理の兄弟のソールズベリー伯、その息子のウォリック伯)を支援した。 1455年にヘンリー6世が回復すると、ヨーク公の政策は覆され、サマセット公が復帰した。マーガレット王妃はヨーク公に対抗する党派を構築して、彼の影響力を奪う陰謀を画策した。次第に追い詰められていったヨーク公とその一党は、身を守るために武力をもって対抗することを決意する。
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