ヘンリー6世の治世とは? わかりやすく解説

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ヘンリー6世の治世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 01:06 UTC 版)

薔薇戦争」の記事における「ヘンリー6世の治世」の解説

1422年8月31日ヘンリー5世急死し即位した一人息子ヘンリー6世はわずか生後9ヶ月だった。その2ヵ月後にフランス王シャルル6世死去しており、トロワ条約従えばフランス王位はヘンリー6世のものとなるが、王太子シャルルシャルル7世)を擁するアルマニャック派はこれを容認しなかった。 ヘンリー6世にはベッドフォード公ジョングロスター公ハンフリー2人叔父がおり、年長ベッドフォード公護国卿摂政)となり、ベッドフォード公イングランド不在時はグロスター公その役割を果たすことになった。だが、グロスター公ランカスター家傍系ウィンチェスター司教ヘンリー・ボーフォートサフォーク伯ウィリアム・ド・ラ・ポールとが反目するようになった1429年ジャンヌ・ダルク活躍によってアルマニャック派オルレアン解放しシャルル7世ランスフランス国王戴冠式挙行した。イングランド側もパリ一時的に確保して1431年ヘンリー6世フランス国王戴冠式挙行するが、1435年アラスの和約同盟者であったブルゴーニュ公フィリップ3世善良公)がシャルル7世講和し、イングランドにとって情勢不利になった。 ベッドフォード公1435年死去すると、ヘンリー6世権力争い絶えない評議員顧問官囲まれることとなったグロスター公護国卿地位求め、この目的遂げるべく意図的に庶民人気得よう画策したが、枢機卿ヘンリー・ボーフォートサフォーク伯抵抗受けたサフォーク伯フランス国王との和平政策推進しシャルル7世王妃マリーの姪にあたるアンジュー公ルネ公女マルグリットマーガレット)とヘンリー6世との結婚取り決めた1445年結婚式執り行われたが、この和平にはメーヌ割譲含まれており、イングランド国内では大変に不評だった。1447年サフォーク侯は和平反対するグロスター公ハンフリー反逆罪逮捕しその5日後にグロスター公はベリー・セント・エドマンズ(英語版)の牢獄死去したグロスター公死に追いやったことで逆にサフォーク公立場悪くなり、今度フランスとの和議破棄して攻撃を行うが、失敗してフランス領土のほとんどを喪失してしまう。1450年サフォーク公失脚し国外追放途上殺害された。 代わってサマセット公エドムンド・ボーフォート和平派中心人物となった一方1446年まで「フランスおよびノルマンディー総督」職に就いていたヨーク公リチャードグロスター公死により第一王位継承権となった)が主戦派の中心となり、宮廷とりわけサマセット公を対仏戦において資金兵士供給滞らせたと激しく非難した1450年ケントにおいて民衆暴動発生したジャック・ケイド反乱)。ヨーク公従弟自称するケイド率いられ一揆軍政治的要求掲げてロンドン向かい政府軍衝突するがこれを打ち負かしロンドン一部占拠しケント州長官廷臣1名を殺害した政府赦免状出したことによって暴徒四散したが、ケイドを含む幾人かが処刑された。 1452年アイルランド総督左遷されていたヨーク公リチャードイングランド帰還しサマセット公排除政府改革求めてロンドンへ進軍した。この時点では彼の大胆な行動与する貴族は僅かであり、ブラックヒース英語版)でヘンリー6世会見する欺かれ拘禁された。彼は1452年から1453年にかけて投獄されるが、恩赦により釈放されている。 宮廷での不協和音国内全土にも反映されるようになり、貴族たちは私闘繰り広げ国王の権威宮廷法に対す不服従を示すようになった北東部でのパーシー家ネヴィル家争いはこの時代典型的な私闘で、他の貴族たちも制約を受けることなくこれを行った多く場合は、それらは古くからの貴族ヘンリー4世以降台頭するようになった新興貴族間で戦われた。古くからノーサンバーランド伯地位有するパーシー家とこれに比べる成り上がりネヴィル家との争いはこのパターンであり、これ以外ではコーンウォールデヴォン行われたコートネイ家とボンヴィル家の私闘がある。 フランスではシャルル7世イングランド軍を追い詰め1453年10月19日イングランド最後拠点であったボルドー攻め落したその後イングランド勢力による反撃試みられたが、小競り合い程度であることから、これをもって百年戦争終結した見做されている。 1453年8月ヘンリー6世最初発作見舞われ精神錯乱に陥り、王子エドワード・オブ・ウェストミンスター)の誕生さえ認識できない有様となったマーガレット王妃は自らを摂政にするよう要求したが容れられず、貴族院指名によりヨーク公護国卿任命された。彼はすぐにこの権力大胆に行使しサマセット公投獄するとともにパーシー家ノーサンバーランド伯ヘンリー6世支持者)と私闘行っていた彼の同盟者ネヴィル家義理の兄弟のソールズベリー伯、その息子ウォリック伯)を支援した1455年ヘンリー6世回復すると、ヨーク公政策覆されサマセット公復帰したマーガレット王妃ヨーク公対抗する党派構築して彼の影響力を奪う陰謀画策した。次第追い詰められていったヨーク公とその一党は、身を守るために武力をもって対抗することを決意する

※この「ヘンリー6世の治世」の解説は、「薔薇戦争」の解説の一部です。
「ヘンリー6世の治世」を含む「薔薇戦争」の記事については、「薔薇戦争」の概要を参照ください。

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