ヘンリー6世の復位と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 01:06 UTC 版)
フランスにはマーガレット王妃とその息子が既に亡命していた。エドワード4世と彼の義弟にあたるブルゴーニュ公シャルル(突進公)との同盟に危機感を持ったフランス王ルイ11世はウォリック伯とマーガレット王妃との同盟を提案した。不倶戴天の敵同士だった両者は同盟に合意し、ウォリック伯は王妃に敵対行為を謝罪して忠誠を誓い、ウォリック伯の娘アンとマーガレット王妃の子エドワード・オブ・ウェストミンスターとの婚姻が成立した。 この時、エドワード4世はヨークシャーでの反乱を鎮圧すべく軍を率いて北上中だった。従兄弟のトマス・ネヴィル(英語版)率いる艦隊の支援を受けたウォリック伯とクラレンス公はイングランド南西部のダートマスに上陸した。ウォリック伯は10月にロンドンを占領し、幽閉されていたヘンリー6世を復位させてロンドン市街を行進させたが、獄中生活で憔悴しきり、文字通りの「影の薄い」姿だったという。新たにモンターギュ侯爵位(実際の所領はなかった)を与えられたジョン・ネヴィルは、大軍を率いてスコットランド辺境部へと兵を進めた。この事態はエドワード4世にとって予想外のことであり、軍隊を解散させると王弟グロスター公とともにドンカスターから海岸部に逃れてホラントに渡り、ブルゴーニュに亡命した。だが、この段階になってもマーガレット王妃とエドワード王子はウォリック伯を信用せず、フランスから動こうとしなかった。 ウォリック伯の成功は短命なものであった。親仏派のマーガレット王妃とウォリック伯が牛耳るイングランドとフランスとの同盟成立に危機感を持ったブルゴーニュ公シャルルはこれに対抗すべく、エドワード4世にイングランド奪回のための軍を集める資金を提供する。 1471年3月15日、エドワード4世はドイツとフランドルの傭兵からなる少数の軍勢とともにヨークシャー海岸のレーヴェンスパー(英語版)に上陸した。彼はすぐにヨークの町を手に入れ、支持者たちを集めた。これを討つべくノーサンバランド伯、エクセター公、オックスフォード伯、ウォリック伯の軍が差し向けられた。討伐軍をすり抜けてロンドンに向けて南下するエドワード4世の軍に、ウォリック伯を見限ったクラレンス公が合流した。4月11日、エドワード4世とクラレンス公はロンドンに入城し、ヘンリー6世を逮捕した。 4月14日、エドワード4世とウォリック伯の軍はバーネットの戦いで決戦をした。この会戦は深い霧の中で戦われ、ウォリック伯軍の一部は同士討ちを演じている。裏切りが発生したと思い込み混乱状態になったウォリック伯軍にエドワード4世軍の騎兵が突入し、ウォリック伯軍は総崩れになった。ウォリック伯は馬に乗ろうとしたところを斬られ、モンターギュ侯も戦死した。 一方、マーガレット王妃とエドワード王子はバーネットの戦いの数日前に西南地方(ウェスト・カントリー(英語版))に上陸していた。フランスに引き返すよりはウェールズのランカスター派と合流することを選んだマーガレット王妃は、セヴァーン川の渡河を図るが、グロスター公が通行を阻止したために失敗した。第4代サマセット公エドムンド・ボーフォートが指揮する彼女の軍隊は捕捉され、5月4日のテュークスベリーの戦いで壊滅した。 捕らえられたエドワード王子とサマセット公は処刑された。戦いからしばらく後の5月14日にヘンリー6世も、ヨーク王朝を強固たらしめるために殺害された。マーガレット王妃はフランス王ルイ11世が身代金を支払うまでの5年間、ロンドン塔に幽閉された。帰国後はフランス王にアンジュー家領の相続権を剥奪され、失意と貧窮の中で1482年に没した。
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