獄中生活
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「ピエール・フランソワ・ラスネール」の記事における「獄中生活」の解説
裁判から死刑に至るまでの二か月間、ピエールは世間の耳目を集めた。新聞は連日、ピエールの話題を報道し、また、彼も新聞に歌や詩を投稿した。ジャーナリストや一般の人々だけでなく、パリの上流社会の紳士淑女たちまでもが、彼に会いに独房の前へと列をなした。それに対してピエールは、ひだ襟飾りのついたシャツを着て、パイプを口にしながら、まるでサロンに招くように訪問者を迎えた。哲学や文学など、様々な話題で議論した。 当時のパリ市民たちにとって、ピエールは、犯罪を示すあらゆる指標に対立した存在であった。第一に、ピエールの身体には、犯罪者に共通すると考えられていた特徴がなかった。当時、ヨハン・カスパー・ラヴァーターの観相学やフランツ・ヨーゼフ・ガルの骨相学が流行しており、犯罪者の表情や頭骨には犯罪や悪徳の傾向を指し示す記号が存在すると一般的に考えられていた。第二に、ピエールの出身階級と教養は、犯罪と強く結びつけて考えられていた貧困と無縁であった。19世紀前半のヨーロッパ社会において、貧困、とりわけ都市に住む民衆の貧困が犯罪への誘因であるとされていた。貧しい労働者や放浪者や下層民が犯罪者の予備軍とされていたのである。ピエールにおいてはむしろ、その出自も教育もブルジョワのそれであった。にもかかわらずブルジョア社会を否定したことは、社会的に大きなスキャンダルであった。
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獄中生活
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「サッダーム・フセイン」の記事における「獄中生活」の解説
サッダームは、拘束後にアメリカ軍の収容施設「キャンプ・クロッパー」に拘置された。ここでのサッダームの生活は、主に詩の創作、庭仕事、読書、聖典クルアーンの朗読に占められた。独房は窓のない縦3メートル、横5メートルの部屋で、エアコンが完備され、プラスチックの椅子が2つ、礼拝用の絨毯が1枚、洗面器が2個、テレビ・ラジオは無く、赤十字から送られた小説145冊が置かれていた。庭には小さなヤシの木を囲むように白い石を並べていたという。 他人に自分の服を洗われることを拒否し、自分で洗濯を行っていたという。エイズ感染を極度に恐れており、看守のアメリカ兵らの洗濯物と一緒に自分の洗濯物を干さないよう頼んでいたという。また、米国製のマフィンやクッキー、スナックなどの菓子も楽しんでいたとされ、2004年に高血圧やヘルニア、前立腺炎を患った以外は病気はせず、逆に体重が増えてダイエットに励むなど健康的な生活を送っていた。 アメリカ軍側は、口ひげや顎ひげを手入れするハサミは支給しなかったという。 獄中で、サッダームは、赤十字を介して、ヨルダンに滞在する長女のラガドや孫のアリーに手紙を送っており、2004年8月2日に孫アリーへ届いた手紙では「強い男になれ。私の一族を頼む。一族の名声をいつまでも保ってほしい」と記した。 2005年5月、英大衆紙「ザ・サン」が、サッダームの獄中での生活を撮った写真を掲載。独房で睡眠中の写真やサッダームのブリーフ姿の写真が掲載され、波紋を呼んだ。これに関しては、イラク国民の間からも「いくら独裁者でも、元大統領に対して非礼」と反発する意見が噴出した。 2005年10月と12月に行われたイラク新憲法を決める国民投票と議会選挙について、サッダームは獄中からイラク国民に投票ボイコットを呼びかける声明を出した。 ジャーナリストのロナルド・ケスラーの本『The Terrorist Watch 』によると、レバノン系米国人でFBI・対テロ部門主任のジョージ・ピロの回想として、サッダームは異常な潔癖症で、手や足を隅々まで拭くために、乳幼児用のウェットティッシュを差し入れたところ、ピロはサッダームの信頼を得たという。 拘留中も1日5回の礼拝を欠かさない敬虔なムスリムではあったが、一方で、高級ワインやスコッチ・ウイスキーの 「ジョニー・ウォーカーブルーラベル」とキューバ製葉巻を好んだ。また、女性にはよく色目を使いアメリカ人の女性看護師が採血に現れたとき、「君は可愛いらしいね」と英語で伝えるよう頼んだとされ、大統領在任時とほとんど変わらない生活を送っていたようだ。また、影武者存在説については「誰も自分を演じることはできないだろう」「映画の中の話だ」と否定したとされる。2人はよく歴史や政治、芸術やスポーツなどについても語り合った。ある日サッダームはFBIから支給されたノートを使って愛についての詩作を始めるなど、意外な一面も見せた。 また、診察に来た医師に対して、「私がもう一度結婚して子どもをもうけることをアッラーがお許しになりますように。その子たちにはウダイとクサイ、ムスタファーと名付けよう」と、死んだ自分の息子と孫の名を口にして冗談を言ったという。 歴代のアメリカ合衆国大統領の評価についてピロが質問すると、ブッシュ父子を嫌悪しながらも、アメリカ人には親近感を抱いており、ロナルド・レーガンやビル・クリントンについては尊敬の念すら示したという。また、湾岸戦争については、アメリカ軍の戦力を過小評価していたと語り、イラク戦争では「ブッシュ政権が本気でイラクを攻撃してくるとは思わなかった」とし、2つの戦争における自らの対応は戦略的誤りであったとした。 一方、1980年代に政権によってクルド人に対する化学兵器を使用した大量虐殺について「必要だった」と正当性を主張。1990年のクウェート侵攻については、侵攻前に行われた両国外相会議の際、クウェート側代表から「すべてのイラク人女性を売春婦として差し出せ」と侮辱されたといい、「罰を下したかった」と述べたという。 サッダームは、イラクが大量破壊兵器を開発済であり、WMDを完成させて密かに国内のどこかに隠し持っているかのように振舞い続けたが、ピロから「なぜ、かかる愚かな行為をしたのか」と問われた際、サッダームは「湾岸戦争での敗北以降、通常戦力は大幅に低下したため、大量破壊兵器を持っていないことが明らかになると、イランやシリアに攻め込まれ、国家がなくなってしまうのではないかとの恐怖があったから」と答えている。また、国連による制裁がいずれ解除されれば、核兵器計画を再開できるとも考えていた。 2009年7月1日に新たに公表されたピロの尋問記録にも、同様の趣旨のことを話しており、国連査察を拒んだ場合の制裁よりも、イラクのWMDが存在しないことが明らかになり、イランに弱みを見せることの方を恐れたという。またサッダームは、獄中記でアラブ諸国にとってイスラエルよりイランが脅威であると評しており、イランのイスラーム体制の指導部を過激派と呼び、嫌悪していたという。 アルカーイダとの関係についても否定し、ウサーマ・ビン・ラーディンを狂信者と呼び、「交流することも、仲間と見られることも望んでいなかった」とし、逆にアルカーイダを政権にとっての脅威と捉えていたという。 ピロによれば、尋問日程がすべて終了すると、サッダームは感情的になったという。「私達は外に座り、キューバ葉巻を2、3本吸った。コーヒーを飲み、他愛ない話をした。別れの挨拶をすると彼の目から涙があふれた」という。 またピロは「彼は魅力的で、カリスマ性があり、上品で、ユーモア豊かな人物だった。そう、好感の持てる人物だった」と回想している。 同様の感想をサッダームが収監されたアメリカ軍収容所の所長だったジェニス・カーピンスキー元准将も述べており、よく若い監視役のアメリカ憲兵の話相手となり、ある時はアメリカ兵の職場結婚の相談などにも応じていたという。カーピンスキーによるとサッダームは「お前は本当に司令官なのか?」とアメリカ軍に女性の将校がいることに関心を示し、「新イラク軍には、女性の司令官を新たに任命する」と語ったという。 また、サッダームの世話を担当したロバート・エリスアメリカ陸軍曹長が、2007年12月31日付きの米紙『セントルイス・ポスト・ディスパッチ』のインタビューで証言したところによると、看守のアメリカ兵達はサッダームを勝利者を意味する「victor」(ヴィクター)というニックネームで呼んでいたという。エリス曹長は、2日に一回独房を見回っていた。ある時、サッダームが自作の詩を読む声が聞こえ、それから互いに言葉を交わすようになったという。自分が農民の子で、その出自を1度も忘れたことはないこと、自分の子に本を読み聞かせして寝かせたこと、娘がお腹が痛いと言ったときにあやしたことなどを語ったという。また、葉巻とコーヒーは血圧に良いとして、エリスに葉巻を勧めたこともあったという。エリスによれば、不平を言わない模範囚であり、アメリカ兵に敵対的な態度は見せなかった。一度だけ、不平を訴えてハンストを起こした。食事をドアの下の隙間から差し入れたからである。その後、ドアを開けて食事を直接届けるようになると、すぐにハンストをやめたとされる。ある時、サッダームが食事のパンをとっておき、庭で小鳥に食べさせていたのをエリスは見ている。 また、サッダームがエリスにアメリカ兵がマシンガンを撃つ姿をジェスチャーで示しながら、『米軍はなぜ、イラクに侵攻したのだ』と質問したという。「国連の査察官は何も見つけなかっただろう」とも述べた。ある日、米本国にいるエリスの兄弟が死亡したため、米国に帰国しなくてはならなかったとき、サッダームは「お前はもう、オレの兄弟だ」と言ってエリスを抱きしめ、別れを惜しんだという。 サッダーム自身も弁護士に対し、「アメリカの兵士が私にサインをよく頼みに来る」「私は、イラクが(自分の手で)解放されたら、私の国に来るように彼らを招待した。彼らは承諾してくれた」と米兵との交流の様子を明かしている。 サッダームの個人弁護人だったハリール・アッ=ドゥライミーは、2009年10月にアラブ圏で出版された回顧録『Saddam Hussein Out of US Prison』の中で、2006年夏にサッダームは米軍拘置施設からの脱走を計画していたことを明かした。計画では、旧政権支持者とサッダームの元警護官で構成する武装集団が、バグダードのグリーンゾーンと国際空港にあるアメリカ海兵隊基地を襲撃し、その隙に空港近くにある拘置施設キャンプ・クロッパーからサッダームを脱獄させ、イラクの武装勢力をまとめてイラク政府や駐留アメリカ軍を攻撃するために、西部アンバール県まで逃亡させる計画だったという。サッダームは、自分以外にも、同じく収監されているかつての自分の部下である、旧政権高官も脱獄させることを望んでいた。しかし、計画は別の武装勢力がキャンプ・クロッパー郊外でアメリカ軍と銃撃戦を行なう事件が起き、その結果、施設の警備が強化されたため未遂に終わったという。その6ヵ月後、サッダームは処刑された。 ハリールの本によれば、サッダームはキャンプ・クロッパーに収監されている収容者にその計画を話したとされ、「イラクが解放されれば、私はこの国を誰からの援助も無しで、7年で発展させる」「イラクをスイスのようにする」と語ったという。
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