獄中書簡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 11:06 UTC 版)
以下は獄中書簡の一部である。 ―異邦語の女神に魅せられて 1996年10月21日―今日はあなたや周りの人がずっと気になっていたこと、私がどうやって様々な言語を習得したかを辿ってみよう。法廷で論じられもしたがこれは別に自慢ではない。人々が気にしているしこれで私の人生の道筋の一つの断面を推測できるだろう。私は龍井で生まれて成長したが最初に接した文字は中国語ではなく日本語だった。初等教育で日本語を学び解放後にもずっと日本の書籍は読んでいたので今でも日本の本は手放せない。次に高等教育で中国語、ロシア語を学んだ。中国外交部に勤務しながら中国語を存分に使った。ロシア語は大学で教材に採択されており自然に親しんだし、北の土地で授業を受けるには学界でロシア語が普遍的だったためロシア語の原典を数知れず読破せねばならなかった。英語は大学で学んだがエジプト留学中に公用語として使われていたので親しまざるを得なかった。アラビア語は専攻していて10年をアラビア語圏で過ごしたので言うまでもなく一番体に染みついている。韓国に来ても檀国大、外大、明知大でアラビア語を講義してきた。ドイツ語との縁は少し意外だがカイロ大学に留学していた頃アラビア語の古典を研究するため必要で、周囲の助けである程度習得できた。フランス語はフランスの植民地だったアルジェリアなどで勤務しながら業務上習得せざるをえなかった。フランス語は魅力的な言語で、なぜ自分の言語を愛さねばならないか分からせてくれる。スペイン語にも触れる機会があった。モロッコにいたときスペインと接触する機会が多く好奇心から慣れ親しんでいった。向学心に燃えていた頃、アラビア語と深い関係のあるペルシア語にも挑戦した。イランの友人たちと親しくしていたのでまずまずの会話はできるようになった。今は文明交流学に没頭しておりこれももっと学ばねばならないだろう。また、マラヤ大学の教授を務めながらマレーシア語も学ばねばならず、フィリピン国籍を取らねばならなかったのでタガログ語にも没頭した。こうやって東西12の言語と格闘してきた訳だ。自律的だったときもあるし他律的だったときもあるが、今文明交流学を開拓する場ではインドの古代語をはじめ二、三個をまた学ばねばならないだろう。いずれにせよ60年わがままな外国語の女神に魅せられてその誘惑から自由になれなかった。見ようによっては悲劇でもあり幸運でもあった。この全ては私の夢と共に始まった数奇な人生の経歴と一つ一つ関連するものだ。東奔西走しながら押し寄せる世の荒波の中でその堅苦しく無味乾燥な異邦語を釣り上げようと時間と精力を使い果たしてきた。だがそれは予定されたことで運命と考え身命を尽くしてきたので微塵も後悔しない。むしろ今もその成果が一つ一つ結実しているので大きなやりがいを感じる。実際外国語は知るほどに世界への地平が限りなく広がっていくのだから大きな資産だ。以上、私の経験が後学たちに何かの助けとなるかは分からないが、一人の人間が志を持ってぶつかって挑戦するのは無意味なことではないだろう。 ―師と弟子が一本の縄で縛られて 1997年1月20日―私は分断の悲劇の体験者として、生き証人として、その犠牲者としてではなくこの民族の運命と前途について多くの苦悶をし、時には骨に染みるほど煩悶してきた。韓国に来てからは分断された国土の悲運をより実感しどうすれば統一できるのか熟考してきた。世界には多くの国があるがわが民族ほど長い間まとまって暮らしてきた国は他にない。これは我々の大きな誇りであり底力だ。そして一日も早く二つの国となったこの国土を一つに結び塞がれていた血と魂が通じるようにせねばならない。誰が何といってもこの土地は我々が生まれ育ち埋められる巣であり墓なのだ。今我々は不信と反目にまみれているが、骨を削る自省によって速やかに和解と統一へ向かわねばならないだろう。これが知識人の姿勢であり良心であると信じる。民族は主観、客観的要素を全て持たねばならないが主観的要素、民族意識がなければ本当の民族とはいえない。民族の成員が相互の一体感と連帯意識を発揮して民族のための心、つまり一つになり共に歩む心を持つことが重要だ。民族は我々にとって厳然たる実態だ。民族愛と共同体意識は普遍的な価値として時代が変わっても変わることはない。捨てるべきものは民族排他主義、虚無主義だけだ。世界がどんなに民族超克や世界主義を喧伝しても今は虚構や仮想に過ぎない。私は隔離された獄中で分断の痛みを骨身に染みるほど感じている。数日前一人の学生と一本の縄で縛られ法廷に出頭したことがあった。彼は私が在職していた檀国大の在学生だった。私の授業を聞いたことがあり私を一目で分かったようだ。彼と一列に縛られていくとき彼が会釈をした。私は接近が禁じられていてどうすることもできず再び会う機会が生じたとき、彼は手錠をはめたまま私の口にキャンディーを一つ入れてくれたのだった。拘置所で菓子類を売っており法廷で緊張をなだめようと持ってきたようだった。その瞬間私は涙がこみ上げた。外ではどうということはないが監獄では飴一つが貴重で誰もが思いのまま人にやれるものではない。私は拘束された学生たちに会うたびに言っていた。「南北の我々既成世代が役目を果たせず若い君たちがこのように苦労をしているのだ」と。彼はしばらくこちらを見て背を向けながらも「教授、お元気で」と何度も会釈して挨拶をしてくれた。この時の心情がどうだったか説明することができない。師と弟子が一つの縄に繋がれるこの珍しくも無情な分断の現実!師の道や師の在り方がそっくり消え失せたこの歯がゆい現実!明らかにこれはわが民族の悲劇であり痛みだ。分断が無かったなら、我々の愛すべき若者たちが監獄に来ることもなく生き生きと未来の人材として暗い影もなく生きていっただろう。また、法廷で私が教えていた大学院生たちが傍聴席に座っているのを見た。私は彼らの目を避けたかった。私が拘束されたために学部や大学院に開設された講座が閉講されたのだ。ようやく出帆した文明交流史号は総舵手を失いまさに難破してしまった。共に乗船した学生たちは漂流するしかなかった。私は彼らを見た瞬間担当教授としての罪悪感に目がしらが熱くなった。恨めしい分断の悲惨と不幸は私のような既成世代が甘受すれば充分であり、これ以上我々の後代たちに引き継ぐことが無ければと切実に感じる。まさにこの願いのために私は若いころ私の前に広がる洋々たる前途と栄華を躊躇せずに捨て、私なりの険しい茨の道を歩んできたのだ。世界史の中で高い自尊心と尊厳を守ってきた民族でありながら分断を克服できず真っ二つのまま苦難の生を生きているのはこの国、この土地の他にない。この土地の分断が続く限り、全ての人が、全ての国がわが民族を仰ぎ見ることはないだろう。我々もまたその誰もがわが民族を誇る資格と面目を持たないのだ。
※この「獄中書簡」の解説は、「鄭守一」の解説の一部です。
「獄中書簡」を含む「鄭守一」の記事については、「鄭守一」の概要を参照ください。
- 獄中書簡のページへのリンク