ヘンリー8世の宮廷の廷臣
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「ジョン・ダドリー (初代ノーサンバランド公)」の記事における「ヘンリー8世の宮廷の廷臣」の解説
1523年に初代サフォーク公爵チャールズ・ブランドンの指揮下に行われたフランス・カレーへの上陸作戦に参加し、戦功によりナイトに叙された。1524年にはグリニッジで開かれたヘンリー8世臨席の馬上槍試合で活躍した。 1530年に母からライル男爵領を相続したが、ライル男爵とは称されていない。1532年にはウォリック城城守(Constable of Warwick Castle)に就任した。1534年から1536年の議会ではケント州選出議員(英語版)を務めている。1534年にはロンドン塔武器庫長官(Master of the Armoury in the Tower)となり、1536年にはスタッフォードシャーのシェリフに就任した。1537年にはスペインに特使として派遣された。同年、王の取り巻きたちの長となる。1538年9月にはカレー副総督に就任した。 1540年にはヘンリー8世の4番目の妻アン・オブ・クレーヴズの主馬頭(master of the horse)となった。1542年3月3日に継父のライル子爵アーサー・プランタジネットが死去。ライル子爵位にはジョンへの継承を認める規定があったが、3月12日に新規の形でライル子爵に叙せられている。同年、スコットランド辺境地域長官(英語版)(warden of the Scottish marches)に就任した。 1543年から1547年にかけて海軍卿(英語版)に就任した。1543年4月にはガーター勲章を授与され、また枢密顧問官に列する。 1544年にはブローニュ包囲戦(英語版)で艦隊を指揮し、フランス軍のブローニュ侵入を抑える武功を挙げた。1546年の終戦までそこにとどまり、同年7月にはパリに特使として派遣された。 ヘンリー8世が病に伏せる中の1546年12月に宮廷内保守派の大物である第3代ノーフォーク公トマス・ハワードが逮捕されて失脚した。これ以降ライル子爵や初代ハートフォード伯爵エドワード・シーモア(後の初代サマセット公)らプロテスタント改革派が台頭するようになる。
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