ヘンリー6世との結婚
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「マーガレット・オブ・アンジュー」の記事における「ヘンリー6世との結婚」の解説
1445年4月23日にヘンリー6世と結婚した。王の側近であるサフォーク伯(後のサフォーク公)ウィリアム・ド・ラ・ポールとヘンリー・ボーフォート枢機卿の肝煎りで百年戦争の和平の一環として行われた政略結婚であったが、先立って1444年5月22日にサフォーク伯の交渉により英仏間で結ばれたトゥール条約は、フランス側からの持参金は一切なく、むしろイングランド側がアンジューとメーヌを割譲する(アンジュー家に返還する)という条件の下に行われた。この内容にイングランド宮廷内では不満が鬱積し、薔薇戦争の原因の一つとなった。 イングランド入りしてからのマーガレットは、宮廷を牛耳る和平派の首領であるサフォーク公と親しくなり、フランスとの和平を推進しつつ国内で専制権力を振るう彼の政策を、夫と共に後押しした。サフォーク公を始め和平派は2人の信任を背景に、グロスター公ハンフリー、ヨーク公リチャードら抗戦派を宮廷から遠ざけ、グロスター公を捕らえ獄死に追いやった。フランスの宥和と評議会からの大貴族排斥、国王からの恩顧を元手にしたパトロネジを通じ派閥を増大させたが、これら一連のやり方は政治から遠ざけられた多くの貴族の不満を集め、抗戦派のヨーク公を中心として反対勢力が結集し始めた。やがて、1449年にイングランド軍の暴発がきっかけで百年戦争が再開されると、フランスが積極的にノルマンディー征服活動を展開した。ノルマンディーのイングランド軍はフランス軍に歯が立たず、ノルマンディーの大半を奪われると、宮廷政治に対する不満が爆発、弾劾されたサフォーク公は翌1450年に失脚して暗殺された。ノルマンディーも4月15日のフォルミニーの戦いでイングランド軍が大敗、勝利したフランス軍により8月に完全制圧されてしまった。 サフォーク公の失脚後はサマセット公エドムンド・ボーフォートが寵臣となり、国王夫妻はサマセット公も支持して政治を任せたが、体制は変化せず不満が解消されないままとなり、ジャック・ケイドの反乱で一時ロンドンが占拠され、沈静後はヨーク公が決起して政治改革を標榜したが、国王夫妻はサマセット公に肩入れしてヨーク公を退けた。だが1453年にカスティヨンの戦いでイングランド軍が再度フランス軍に敗北、百年戦争がイングランドの敗戦で終結すると、ヘンリー6世が発狂して緊張が高まり、10月13日にマーガレットが息子エドワードを産んだことで王位継承権を持つヨーク公は危機感を抱き、同年にサマセット公をロンドン塔へ投獄して政治の実権を奪った。マーガレットはヨーク公に対抗して評議会に自分を摂政にするよう要求したが却下、ヨーク公が1454年に護国卿となり政権をヨーク派で固めたが、年末にヘンリー6世が精神を回復すると、サマセット公の釈放をきっかけにヨーク派が政権を追われた。
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