ヘンリー2世との対立と再婚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 09:41 UTC 版)
「ルイ7世 (フランス王)」の記事における「ヘンリー2世との対立と再婚」の解説
教皇エウゲニウス3世からの離婚証認教書を受け取るや否や、アリエノールは領地に帰還する。独身となった彼女には、各地からの求婚が相次いだが全てを拒否し、わずか2ヶ月後の5月18日に、アンジュー伯・ノルマンディー公アンリと再婚する。ルイ7世とは近親婚を理由に離婚したにも関わらず、アンリはルイよりも近い血縁関係にあった。再婚は自領を守るために男性が必要不可欠だったからだが、アンリにルイ7世には無い資質と性格(数か国語を操る豊かな教養と荒々しい性格)を見出していたからではないかと言われている。アンリの方も領土拡大および対イングランド支援の野心とアリエノールの成熟した魅力に惹かれていたとされる。また再婚直後にフォントヴロー修道院に多額の寄進を行い、この修道院と生涯を通して密接に関わっていった。 多情なアリエノールの再婚とアンリへの軍資金提供にルイ7世は激怒する。さらに、この結婚によりフランス国土の半分以上がアリエノールとアンリの物となったことは、フランス王国にとって大きな脅威となった(アンジュー帝国)。シュジェールだけでなく1月にティボー4世が亡くなり(ラウル1世も10月に死去)、側近を失い孤立していたルイ7世だったが急ぎ顧問会議を召集、アンリがルイ7世の封臣にも関わらず王の許可無く結婚したことを理由にフランス宮廷への出頭を命令、無視されると7月にアンリの弟ジョフロワ(英語版)を加えてノルマンディーへ出兵した。だがアンリの素早い進軍でジョフロワは降伏、ルイ7世も弟のドルー伯ロベール1世と共にヴェルヌイユを牽制攻撃したが、急病に倒れ休戦を余儀無くされた。スティーブン・ウスタシュ父子の死によりアンリは1154年にイングランド王ヘンリー2世に即位してプランタジネット朝を開き、イングランドも手に入れた。以後もルイ7世はヘンリー2世と西フランスの支配をめぐって紛争を重ね、この大陸のアンジュー帝国は後の英仏間の百年戦争の原因となった。 ヘンリー2世との争いは彼がイングランド王に即位してからも続き、ヘンリー2世はアンジューの支配を固める一方で外交で優位に立ち、1158年にジョフロワがブルターニュ領有を目論んだ矢先に急死すると、自らブルターニュ継承権をルイ7世へ要求してナントを併合、ルイ7世は両方とも承認した。また同年、ヘンリー2世の使者としてフランスに派遣された大法官トマス・ベケットと会談、ヘンリー2世とアリエノールの次男ヘンリー(後の若ヘンリー王)とルイ7世と2番目の妃コンスタンス・ド・カスティーユの娘で1歳にもならないマルグリットの婚約が成立、マルグリットの持参金としてヴェクサンを譲ることも約束した。翌1159年にヘンリー2世はトゥールーズ伯レーモン5世(英語版)にアキテーヌ公の宗主権を認めさせるためトゥールーズへ侵攻したが、こちらはウスタシュの未亡人だった妹コンスタンスがレーモン5世と再婚していた関係でヘンリー2世の侵攻を妨害・撤退させた。ただし、レーモン5世は1173年にヘンリー2世に臣従している。 アリエノールはヘンリー2世と野望を共有し、当時息子の無かったルイ7世亡き後にイングランド王国とフランス王国がヘンリーの手に入る未来を夢想していたが、1165年にルイ7世が3番目の妃アデル・ド・シャンパーニュとの間に息子フィリップを儲けたため叶わなかった。また、先立つ1160年にルイ7世は政略結婚を通じてシャンパーニュ伯領を治めるブロワ家に接近、アリエノールとの間の娘マリーとアリックスをそれぞれシャンパーニュ伯アンリ1世・ブロワ伯ティボー5世兄弟と婚約、自身もシャンパーニュ伯兄弟の妹アデルと結婚することでプランタジネット家を牽制することを狙った。ヘンリー2世・アリエノール夫妻も対抗して同年にヘンリーとマルグリットの結婚式を挙げ、ヴェクサンを勝手に領有したりしている。
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