ヘンリー7世に仕える
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 02:21 UTC 版)
「トマス・ハワード (第2代ノーフォーク公)」の記事における「ヘンリー7世に仕える」の解説
父と共に1485年8月のボズワースの戦いにリチャード3世側で参加したが、父とリチャード3世は敗死し、サリー伯も捕虜となった。勝者のヘンリー7世が即位した後の同年11月の議会で私権剥奪され、サリー伯位を奪われた。さらに1489年までロンドン塔で獄中生活を送ることになった。 彼は「ハワード家はリチャード3世に忠誠を尽くしたのではなく、イングランド王冠に忠誠を尽くした。王冠の下の人物が変わっても王冠に対する忠誠心は変わらない」と訴えていた。その訴えは王位が不安定で有力貴族の支持を欲していたヘンリー7世の心をとらえたようだった。1489年1月には釈放され、同年中にサリー伯位について私権剥奪が解除された。 以降テューダー朝のヘンリー7世とヘンリー8世の宮廷に仕えるようになった。1497年の初めにはサリー伯とイングランドの軍勢は、イングランド北東部ダラム管区の拠点であるノーサンバーランドのノーハム城でスコットランドの攻撃を撃退した。1503年のスコットランドとの和平条約の条件としてジェームズ4世に嫁いだヘンリー7世の長女マーガレットの花嫁行列を指揮し、スコットランドまで付き添った。 1501年に再び枢密顧問官となる。同年から1522年にかけては大蔵卿(英語版)、1509年から死去まで軍務伯を務めた。 また1490年代から王の重用を背景にイースト・アングリアで勢力を拡大、サフォーク伯エドムンド・ド・ラ・ポールの勢力を脅かした。1501年にヘンリー7世の長男アーサー王太子に嫁いだキャサリン・オブ・アラゴンの出迎え役の1人となり、翌1502年に早世したアーサーの弔問と葬儀を取り仕切った。1506年にチャールズ・ブランドン(後のサフォーク公)と共にイングランドで遭難したブルゴーニュ公フィリップ4世の出迎えと監視の任務に当たり、1508年にはカレーで結ばれたヘンリー7世の次女メアリーとフィリップ4世の息子シャルル(後の神聖ローマ皇帝兼スペイン王カール5世)の婚約の立ち合いも任されるなど重要任務をこなした(ただし、1514年にメアリーは外交方針の転換でフランス王ルイ12世と結婚する)。
※この「ヘンリー7世に仕える」の解説は、「トマス・ハワード (第2代ノーフォーク公)」の解説の一部です。
「ヘンリー7世に仕える」を含む「トマス・ハワード (第2代ノーフォーク公)」の記事については、「トマス・ハワード (第2代ノーフォーク公)」の概要を参照ください。
- ヘンリー7世に仕えるのページへのリンク