アイルランド総督
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/02/11 03:31 UTC 版)
アイルランド総督(アイルランドそうとく)は、イングランド王国支配下のアイルランドにおける君主の名代としておかれた役職。英語では異なる名称の役職について、日本語ではこの名称で言及することがある。
- アイルランド総督 (ロード・デピュティ) (Lord Deputy of Ireland) - 15世紀から17世紀に置かれた。
- アイルランド総督 (ロード・レフテナント) (Lord Lieutenant of Ireland) - 14世紀以来置かれた例があるが、おもに17世紀から20世紀にかけて置かれた。
関連項目
- アイルランド自由国総督 (Governor-General of the Irish Free State)
- 北アイルランド総督 (Governor of Northern Ireland)
- ベルファスト総督 (Lord Lieutenant of Belfast)
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アイルランド総督
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 08:08 UTC 版)
「ヒュー・パーシー (第3代ノーサンバーランド公爵)」の記事における「アイルランド総督」の解説
1829年1月、首相初代ウェリントン公爵からアイルランド総督への就任を打診され、1年か1年半ほどで退任することを条件に受諾した後、2月2日に正式に任命され、3月6日にダブリンに到着した。同日には聖パトリック勲章を授与された。アイルランド総督の年俸は3万ポンドだったが、就任にあたり1万ポンド減額を申し出た。 アイルランド総督の就任許諾について、同時代のチャールズ・グレヴィル(英語版)は回想録でノーサンバーランド公爵が富を見せびらかすために受諾したと述べた。『アイルランド人名事典(英語版)』(2009年)はウェリントン公爵がノーサンバーランドにその富を見せつつ王のような超然した態度をとることを期待したとし、『オックスフォード英国人名事典』はノーサンバーランド公爵が就任あたり「王のようなパフォーマンス」(a semi-regal performance)をするよう命じられ、実際にダブリンへの道中のスタッフォードシャーで(シャルル10世戴冠式に持って行った)9万ポンドの価値があるプレートなどを持ち、兵隊の護衛を受けて進む馬車隊が目撃されている。就任後は下馬評通り、アイルランド総督の宮廷における格式を昔のような華美さに回復させた。 ノーサンバーランド公爵の総督就任はちょうどカトリック協会(英語版)弾圧法案の可決と重なり、ウェリントン公爵は7月にはノーサンバーランド公爵にアイルランドの安寧を維持するよう強い手段をもって臨むことを促した。 1829年カトリック信徒救済法が可決された後もダニエル・オコンネルなどの合同解消派は活動を続けており、ノーサンバーランド公爵はオコンネルらへの対抗としてリチャード・レイラー・シェイル(英語版)などの穏健派を利用した。内閣への助言としては「オコンネルが合同解消を動議したら、彼の言い分を辛抱強く聞くべきである。そうすれば、不動の証拠をもって彼を論破できる」と述べた。 1830年11月にウェリントン公爵内閣が倒れると、ノーサンバーランド公爵もアイルランド総督を辞任した。
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