アイルランド総督
アイルランド総督
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 08:08 UTC 版)
「ヒュー・パーシー (第3代ノーサンバーランド公爵)」の記事における「アイルランド総督」の解説
1829年1月、首相初代ウェリントン公爵からアイルランド総督への就任を打診され、1年か1年半ほどで退任することを条件に受諾した後、2月2日に正式に任命され、3月6日にダブリンに到着した。同日には聖パトリック勲章を授与された。アイルランド総督の年俸は3万ポンドだったが、就任にあたり1万ポンド減額を申し出た。 アイルランド総督の就任許諾について、同時代のチャールズ・グレヴィル(英語版)は回想録でノーサンバーランド公爵が富を見せびらかすために受諾したと述べた。『アイルランド人名事典(英語版)』(2009年)はウェリントン公爵がノーサンバーランドにその富を見せつつ王のような超然した態度をとることを期待したとし、『オックスフォード英国人名事典』はノーサンバーランド公爵が就任あたり「王のようなパフォーマンス」(a semi-regal performance)をするよう命じられ、実際にダブリンへの道中のスタッフォードシャーで(シャルル10世戴冠式に持って行った)9万ポンドの価値があるプレートなどを持ち、兵隊の護衛を受けて進む馬車隊が目撃されている。就任後は下馬評通り、アイルランド総督の宮廷における格式を昔のような華美さに回復させた。 ノーサンバーランド公爵の総督就任はちょうどカトリック協会(英語版)弾圧法案の可決と重なり、ウェリントン公爵は7月にはノーサンバーランド公爵にアイルランドの安寧を維持するよう強い手段をもって臨むことを促した。 1829年カトリック信徒救済法が可決された後もダニエル・オコンネルなどの合同解消派は活動を続けており、ノーサンバーランド公爵はオコンネルらへの対抗としてリチャード・レイラー・シェイル(英語版)などの穏健派を利用した。内閣への助言としては「オコンネルが合同解消を動議したら、彼の言い分を辛抱強く聞くべきである。そうすれば、不動の証拠をもって彼を論破できる」と述べた。 1830年11月にウェリントン公爵内閣が倒れると、ノーサンバーランド公爵もアイルランド総督を辞任した。
※この「アイルランド総督」の解説は、「ヒュー・パーシー (第3代ノーサンバーランド公爵)」の解説の一部です。
「アイルランド総督」を含む「ヒュー・パーシー (第3代ノーサンバーランド公爵)」の記事については、「ヒュー・パーシー (第3代ノーサンバーランド公爵)」の概要を参照ください。
アイルランド総督
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 22:37 UTC 版)
「トマス・ウェントワース (初代ストラフォード伯爵)」の記事における「アイルランド総督」の解説
国王派になったとはいえ、独立不羈の性格のために国王から疎んじられ、1632年1月に中央から厄介払いされる形でアイルランド総督(ロード・デピュティ)に任じられた。 1633年にダブリンに入り、以降1640年までアイルランド統治にあたった。彼はアイルランドからできる限り搾り取ろうと苛烈な支配を行った。その世論無視、反逆者への不寛容政策を彼自身は「徹底政策」と呼んだ。 1634年にはアイルランド議会を招集して多額の徴税を承認させた。さらに従来の総督府がアイルランド人に残しておいた土地を奪い取るべく、コノートに新植民地建設を行った。またダブリン近郊に入植したイングランド系・カトリック系の旧植民者と北部アルスターに植民したスコットランド系・長老派の新植民者の対立を利用した分断統治によって容赦ない収奪を行った。またアイルランドを経済的に従属的条件下に保っておくために羊毛工業を抑制し、アイルランドが毛織物の供給をイングランドに仰がざるを得ない状態にした。またイングランドと競合する恐れがないリネン生産を推進し、スペインとの交易を始めた。海賊も徹底的に一掃して貿易をしやすくし、関税収入を増加させた。 こうした処置により総督府の財政を均衡させることに成功し、イングランドはアイルランド統治で初めて黒字を得ることができた。 彼の統治の目的は大ブリテン島における王室の支配強化にアイルランドの資源を利用することにあったので、彼はこれらの増収の大半を軍隊強化に注ぎ込んだ。 また教会と土地の収入も回復させ、教会堂の再建や聖職者の住宅建設にも尽力した。アイルランドの国教会化を目指し、アイルランドのイングランド国教会からの独立を訴える地方聖職者会議にイングランド国教会の39箇条項について認めさせた。しかし彼のアイルランド国教会化政策は、分割統治が裏目となり、すべての宗派から反発を買い、この不満が後の内乱の発火点となる。
※この「アイルランド総督」の解説は、「トマス・ウェントワース (初代ストラフォード伯爵)」の解説の一部です。
「アイルランド総督」を含む「トマス・ウェントワース (初代ストラフォード伯爵)」の記事については、「トマス・ウェントワース (初代ストラフォード伯爵)」の概要を参照ください。
アイルランド総督
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 04:49 UTC 版)
「ヘンリー・パジェット (初代アングルシー侯爵)」の記事における「アイルランド総督」の解説
カニング内閣の成立に伴い、1827年4月30日に兵站総監(英語版)に任命され、閣僚になった。同時に枢密顧問官にも任命された。 1828年1月にウェリントン公爵内閣が成立すると、同年2月27日にアイルランド総督に任命された。『英国人名事典』によれば、アイルランド総督への任命は新内閣成立以前には内定されていた。しかし、侯爵がかねてよりカトリック解放への支持で知られていたため、カトリック解放に反対した首相ウェリントン公爵と内相ロバート・ピールとの関係は最初からよくなかった。 この時期、アイルランドではダニエル・オコンネルの指導するカトリック協会(英語版)がカトリック解放問題の解決を迫ろうとしており、国王ジョージ4世は出立する前のアングルシー侯爵に対し、「真のプロテスタントであることを信じる」(I know you are a true protestant)と述べたが、アングルシー侯爵は「私はプロテスタントとしてもカトリックとしても扱われません。私はアイルランドに行って、両者の間で公正にふるまうことを決心しました」(I will not be considered either protestant or catholic; I go to Ireland determined to act impartially between them)と返答した。同年7月にカトリックへの譲歩の必要性に気づき、ジョージ4世は8月には早くもアングルシー侯爵の召還を望んだが、公爵は世論に受け入れられる理由がないとして召還をせず、11月11日に侯爵への手紙で侯爵のカトリック協会への融和的な態度に抗議するにとどまった。 アングルシー侯爵はアイルランド総督として、経済の発展に向けた提案をしたが、悉く無視された。さらに内閣の意向と違い、1828年12月の手紙でカトリック解放への支持を表明したため、1829年1月初に政府により召還され、19日にアイルランドを発った。一方、『オックスフォード英国人名事典』では侯爵の召還が1828年12月30日には決定され、手紙の件は侯爵の出立を早めただけだとした。カトリック解放への支持によりアイルランドでの人気は高く、アングルシー侯爵の召還はアイルランド人に惜しまれた。『アイルランド人名事典(英語版)』によれば、アングルシー侯爵は召還の件によりアイルランドでの人気がさらに高まったという。これによりカトリック解放が一気に遠のいたように感じられたが、結果的にはウェリントン公爵が国王の説得に成功、4月13日には1829年ローマ・カトリック信徒救済法が成立した。 1830年11月、グレイ伯爵内閣の成立に伴いアングルシー侯爵はアイルランド総督を再任した。しかし、配下の主席政務官(英語版)スタンリー卿エドワード・スミス=スタンリーが入閣した一方、アングルシー侯爵は閣外大臣だった。このとき、カトリック解放はすでになされており、アングルシー侯爵はカトリックとプロテスタントの融和に努めようとしたが、ダニエル・オコンネルの合同法廃止運動(英語版)に直面したアングルシー侯爵は内閣の支持を受けて強硬策をとり、1831年1月14日にオコンネルが銀行の取り付け騒ぎを起こすべきと公言するとオコンネルの逮捕に踏み切り、「アイルランドを統治するのは彼か私か、というところまで来ている」(Things are now come to that pass that the question is whether he or I shall govern Ireland)と評した。 1831年3月1日、事態が急転した。内閣が第1回選挙法改正の計画を提出し、オコンネルが廃止運動をいったん止めて選挙法改正への支持を表明したのであった。アングルシー侯爵も選挙法改正を支持し、十分の一税問題(英語版)の解決も主張したが、後者はあまり成果が上がらなかった。1831年10月に提出された、選挙法改正の第2次法案に賛成票を投じた。 アイルランドでの治安維持のため強圧法(Coercion Act)の成立を求めて人気を失ったが、『オックスフォード英国人名事典』によれば、アングルシー侯爵は強圧法を成立させただけで十分だと感じ、実際に運用することはなかった。強圧法以外では教育委員会(Board of Education)の成立に貢献、特に国立の初等教育制度の設立に成功、1843年にはアイルランドで40万人の子供が国立学校に通うほどだった。一方、救貧法改革は進められなかった。そして、1833年7月の内閣総辞職でアングルシー侯爵も同年9月にアイルランド総督を辞任した。 1842年12月20日、第7軽竜騎兵連隊隊長から王立近衛騎馬連隊(英語版)名誉連隊長に転じた。
※この「アイルランド総督」の解説は、「ヘンリー・パジェット (初代アングルシー侯爵)」の解説の一部です。
「アイルランド総督」を含む「ヘンリー・パジェット (初代アングルシー侯爵)」の記事については、「ヘンリー・パジェット (初代アングルシー侯爵)」の概要を参照ください。
- アイルランド総督のページへのリンク