アイルランド系移民
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:05 UTC 版)
「ニューヨーク市の歴史」の記事における「アイルランド系移民」の解説
初期の共和党政治におけるニューヨークは、プロテスタントの中産階級(株ブローカー、銀行員、職人、商人など)に依存しており、アイルランドの財政悪化で1840年代に新大陸に大量に移民してきたカトリックのアイルランド系移民は読み書きもできず消防士や警備員などのボランティアに従事することとなった。1845年から49年にかけて起こった本国アイルランドのジャガイモ飢饉はアイルランド移民を加速させ、1850年に彼らの人口は市全体の4分の1にまで達した。この頃、1848年革命によるドイツ移民も増えている。映画・小説「ギャング・オブ・ニューヨーク」は1846年頃のアイルランド・ギャングの抗争を描いている。先にアメリカに移住していたプロテスタント系市民はカトリックのアイルランド移民がアメリカをカトリック化させる恐れを抱き、1843年にはプロテスタントによりニューヨークでアメリカ共和主義者党(American Republican Party)が結成され、1845年には全国政党ネイティブ・アメリカン党へと発展した。彼らは1850年代半ばに反カトリック移民運動「ノウ・ナッシング」(Know Nothing)を活発化させた。 規制されない資本主義は多くの中産・上流階級を生み、企業の労働力の需要はさらに多くの移民を生んで「人種のるつぼ」と呼ばれるようになった。貴族中心のヨーロッパ社会を離れ新興国家で成功する「アメリカンドリーム」という言葉もこの頃生まれた。しかし、全ての人が上手くいくわけはなく、多くの失敗者も生み出し、その貧しさは子供・孫の代まで続きファイヴ・ポインツは想像絶するまでの貧困街と化した。それとは逆に1850年代中盤からは成功した者はロウワー・ブロードウェイ、ワシントン・スクエア、グラマシーパークに住居を構えた。 1840年から50年にかけて、ニューヨーク市は市民からの強い要求に応え、ニューヨーク市警と公立学校の設置を行った。 移民増加という社会変化は、地震のようにニューヨークを揺るがせた。今日のような官僚政治が行われていなかった当時は、同じような考えや傾向を持った市民が自発的にネットワークを作り市政を行っていたが、こうした体制では変化に対応することは不可能だった。結果、各民族ごとに政治集団や派閥が発生し、ばらばらに動いて利権を争うようになった。職人達のコミュニティが新来のアイルランド人から先住のプロテスタント系住民の居住地域を守ったことにより、アイルランド人は自分達を守るギャングを結成した。警察、消防、清掃などといった市政を自分達に有利になるよう仕向けるために民族間の抗争が起こり犯罪数は増加した。民主党の派閥組織タマニーホールは、アイルランド系移民に対してのサポートを行い、1854年にタマニーから初の市長フェルナンド・ウッドが選挙の末当選。市の改革に踏み切り、手始めに誕生してわずか3年のウィリアムズバーグ(英語版)をブルックリン区に取り込み「合衆国第3の都市」にする計画を立てた。
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