総督に対するアイルランド人の態度
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/07 17:33 UTC 版)
「アイルランド総督 (ロード・レフテナント)」の記事における「総督に対するアイルランド人の態度」の解説
イギリスによるアイルランド統治そのものと同じように、総督職はナショナリスト (nationalist) には嫌われていたが、ユニオニスト (unionist) たちからは、程度の違いはいろいろあったものの、おしなべて支持されていた。総督たちの中には、個人的な才覚によって、ナショナリストたちからも人気を得た例もあった。19世紀のはじめから、総督職を廃止し、「アイルランド担当国務大臣 (Secretary of State for Ireland)」の設置を求める声が頻繁に起きるようになった。一度は、こうした制度改革に向けた法案が時の政権から提出されたこともあったが、結局のところ総督職は、(北アイルランドを除く)アイルランドの大部分についてイギリスの統治が終わるまで、存続し続けた。 アイルランドのナショナリストたちは、19世紀を通して、また20世紀はじめにおいて、アイルランドの自治を求めて運動を展開した。ダニエル・オコンネル (Daniel O'Connell) は、連合法 (1800年)の廃止とアイルランド王国の再建を求めたが、チャールズ・スチュワート・パーネルなど、その後のナショナリストたちは、より穏健な路線を採り、グレートブリテン及びアイルランド連合王国の枠組の中での自治 (home rule) を求めた。しかし、いずれにしても、アイルランドの統治機構再編に際し、総督職の廃止は当然のこととされていた。 4次に及んだアイルランド自治法案の最後のものとなったアイルランド統治法 (1920年) は、総督職の存続を組み込んでいた。統治法はアイルランドを北アイルランドと南アイルランドに分割し、連合王国内において統治権限を委譲された自治政体とした。南北アイルランドを結合させる機構として、やがて全アイルランドの議会として機能するようになることが期待されていたアイルランド評議会 (Council of Ireland) とともに、両政体の名目的な首長としてそれぞれの首相を任命し、それぞれの議会を解散させる役割を担う総督が置かれた。しかし実際には、北アイルランドは統治法にもとづいて機能したものの、南アイルランドは間もなくアイルランド自由国に置き換わった。総督がもつものとされた権限は、法改正により、新設された北アイルランド総督 (Governor of Northern Ireland) が代わって行なうことになったが、アイルランド自由国において王権を代表する役割は、新設されたアイルランド自由国総督 (Governor-General of the Irish Free State) が担うことになった。その結果、アイルランド総督(ロード・レフテナント)は廃止されるに至った。 伝統的に代々のアイルランド総督は、ダブリン城内のチャペル・ロイヤル (Chapel Royal) のどこかに、自身の紋章を残しており、ステンドグラスの窓に組み込まれたものや、椅子に彫刻されたものなどがある。ダブリンの人々によれば、最後の総督となったダーウェントのフィッツアラン卿の紋章が、最後まで残っていたスペースを占めているのだという。
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