総督としての後期
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「ジョン・エンデコット」の記事における「総督としての後期」の解説
1641年、エンデコットは副総督に選出され、この役職にあったので「マサチューセッツ自由の主文」署名者の1人となった。それは植民地人全てが使うことのできる多くの個人権利を列挙したものであり、権利章典の前身となった。その後の数年間は静謐であったが、インディアンとの戦争の噂があったので、1643年にニューイングランド連合を結成することとなり、ニューイングランドの各植民地が共通の外敵に当たることと、逃亡奴隷や法の執行からの逃亡者の扱いなど内部的な事項に共同して行動するよう考案された。 1643年、ウィンスロップ総督が、隣接するフランス領アカディアで続いていた権力闘争で、味方する側の資産に関する論争に巻き込まれるようになった。エンデコットはフランス人の闘争にイングランド人が巻き込まれることなく、彼らの間のことにしておくべきだと指摘し、またその闘争は関係する双方を弱めるものだと言った。1644年の総督選挙は、ウィンスロップの政策に関する住民投票となった。エンデコットが総督に選ばれ、ウィンスロップは副総督になった。エンデコットはその1年間の任期で、植民地を4つの郡、すなわちサフォーク郡、エセックス郡、ミドルセックス郡、ノーフォーク郡に分ける手続きを監督した。セイラムを地盤とするエンデコットが総督に昇格したことで、セイラムの他の住人が植民地の首都を持ってこようとする動きを促すことにもなったが、総督の補佐官委員会によってその動きは拒否された。 イングランド内戦(1642年開始)からの影響も、エンデコットの任期中にボストンに現れるようになった。王党派の船長が動かした船と、議会派の船長が動かした船の2隻がボストンに到着し、議会派は王党派の船を捕獲しようとした。多くの審議が行われた後で、エンデコットの評議会は基本的に議会派の立場を支持することになった。もしイギリスの議会が「今後悪質な精神であるならば」独立を宣言できる権利を残した。議会派は王党派の船を捕獲することを認められ、植民地は港に入ってくる王党派の船の捕獲を始めた。 1645年、トマス・ダドリーが総督に選ばれ、ウィンスロップがその副総督となった。エンデコットはその慰安として植民地民兵隊の指揮を任され、総督に報告することとなった。また再度総督の補佐となり、1646年位はイングランド連合に対する植民地の代表に選ばれた。隣接する植民地でのインディアンとの紛争の恐れによって、マサチューセッツは防衛的側面を高めることとなり、エンデコットがその指導的役割を果たした。1646年、ウィンスロップが総督に再選されたが、1649年に死去し、その後はエンデコットが総督を引き継いだ。その後毎年再選され、死去する1665年までほぼ連続して総督を務めることになった。1650年から1651年と1654年から1655年の2つの期間のみ副総督だった。 1639年、エンデコットはセイラムの北にある数百エーカーの土地を払い下げられ、そこが現在のボックスフォードとトップスフィールドになっている。この土地が正式に区画割りされたのは1659年になってからだったが、1651年には既にその土地に隣接する「銅の採掘が見込まれそうな土地300エーカー」を払下げられていた。エンデコットは、近くのリンで鉄工所の立ち上げを行ったことのある初期開拓者リチャード・リーダーを雇ったが、そこで銅を開発しようという試みは失敗した。 全ての植民地で貨幣の不足が続いており、マサチューセッツでは1652年に造幣所を設立し、銀の保有分の中から貨幣の鋳造を始めた。この動きで実際的な問題を解決したが、植民地は王室から貨幣を作る権限を与えられていなかった。エンデコットが総督を務めている間、このことは問題にならなかったが、その後王室との論争の源となり、1862年頃には造幣所が操業を止めた。 エンデコットが総督である間、主に1650年代に植民地の領域が幾らか広がった。現在のコネチカット州ストーニントンをピクォート戦争の戦利品と公式に主張したことに加え、植民地の北側の境界線を確定しようとした。1652年、植民地の認証状は北側境界をメリマック川の北3マイル (5 km) と定義していたので、川の最北端を決めるために、測量士と共に委員会を派遣した。この測量士たちはインディアンのガイドに導かれ、メリマック川の水源だとそのガイドが主張したウィニペソーキー湖の出水口に行った。その場所で、測量隊は現在もある岩に碑文を刻んだ。それは現在ニューハンプシャー州の小さな州立公園に置かれている。この測量線が東に延ばされると、境界線はカスコ湾の海岸線に伸ばすように決められ、それが現在メイン州の最南端とニューハンプシャー州の境界となった。
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