1650年代
1650年代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 20:09 UTC 版)
詳細は「1650年代」を参照 1650年ダンバーの戦いで、クロムウェル率いるイングランド軍がデイヴィッド・レズリー率いるスコットランド軍に勝利。 ヤアーリバ朝がポルトガルからマスカットを奪回しオマーン全土を回復。インド洋全域を商業圏とし東アフリカ海岸部を勢力下に置く(オマーン海洋帝国、1696年〜)。 広州で庚寅の劫。摂政王ドルゴン死去。 琉球王尚質の命により羽地朝秀が『中山世鑑』を編纂、琉球王国初の正史となる。 1651年徳川家光死去、徳川家綱が江戸幕府第4代将軍となる。刈谷藩主松平定政の所領返上の申し出と改易。慶安の変による由井正雪一派の処刑。 末期養子の禁が緩和される。 順治帝の命により摂政王ドルゴンの爵位が剝脱され、同母弟アジゲらが粛清される。 イングランドが航海条例を制定。ウスターの戦いでイングランド軍がチャールズ1世の息子チャールズ2世を撃退。 トマス・ホッブズの『リヴァイアサン』が刊行される。 ローマのナヴォーナ広場と付随する「四大河の噴水」が完成する。 オスマン皇帝メフメト4世の祖母キョセム・スルタンが、皇帝の母トゥルハン・ハティジェに倒される。 1652年第一次英蘭戦争( - 1654年)。 承応の変。 北京で清の順治帝がダライ・ラマ5世と会見する。 1653年クロムウェルがランプ議会(長期議会)を解散し、ベアボーンズ議会を招集する。「統治章典」が制定され、クロムウェルが護国卿に就任。 モスクワ総主教ニーコンの教会改革が始まる。 オランダ人ヘンドリック・ハメルらが済州島に漂着。以後13年間李氏朝鮮に幽閉される(『朝鮮幽囚記』)。 1654年後光明天皇が死去し、第111代後西天皇が即位。 中国人僧隠元隆琦が日本に来訪する。 オランダのデルフトで火薬庫大爆発。 1655年北東欧の覇権をめぐる北方戦争が起こる( - 1661年)。スウェーデン軍のワルシャワ占領により、ポーランドの「大洪水時代」始まる( - 1660年)。 前スウェーデン女王クリスティーナがカトリックに改宗。 イギリス海軍がスペイン領ジャマイカを占領。 ピエモンテ渓谷のワルドー派虐殺(英語版)。 後水尾院の命で比叡山麓に修学院離宮が造営される。 1656年キョプリュリュ・メフメト・パシャがオスマン帝国大宰相に就任し改革を断行(キョプリュリュ時代の始まり)。 フランスで一般施療院令が出され、男性用のビセートル病院と女性用のサルペトリエール病院が創設される。 バルーフ・デ・スピノザがアムステルダムのユダヤ人共同体からヘーレム(破門)を受ける。 1657年明暦の大火。 水戸藩主徳川光圀の命により『大日本史』の編纂が始まる( - 1906年)。 「統治章典」が廃止され「謙虚な請願と勧告」が制定。 オリヴァー・クロムウェルがイングランドからのユダヤ人追放令(1290年 - )を解除。 1658年ムガル皇帝シャー・ジャハーンが幽閉され、帝位継承争いに勝利したアウラングゼーブが即位。 フランソワ・パリュとピエール・ランベール・ド・ラ・モットによりパリ外国宣教会が組織される。 ポルトガル領セイロンをオランダが占領(オランダ領セイロン)。 スウェーデン軍が「氷上侵攻」でデンマーク首都コペンハーゲンを包囲し、ロスキレ条約を締結。 護国卿オリヴァ-・クロムウェルが死去、息子のリチャード・クロムウェルが護国卿となる。 1659年ピレネー条約の締結でスペインの没落が決定的となる。 フランスがセネガルに植民地サン・ルイを建設。 中国人儒学者朱舜水が日本に来訪する。
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