所領返上
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/03 01:48 UTC 版)
寛永20年(1643年)4月、明成は「我は病で藩政を執れる身ではなく、また大藩を治める任には堪えられず、所領を返還したい」と幕府に申し出た。5月、幕府は加藤氏の改易・取り潰しを命じたが、加藤嘉明の幕府に対する忠勤なども考慮して、明成に1万石を新たに与えて家名再興を許した。しかし明成が応じなかったため、幕府は明成の子・明友に石見吉永藩1万石を新たに与えて家名を再興させた。『徳川実紀』が伝えるのは以上のような経緯である。ただし『徳川実紀』巻53、寛永20年5月2日条は改易の事実を記したあとで「世に伝うる処は」と経緯を記し、そこに堀主水の一件があるので、この経緯は幕府の記録(日記)に基づくものではなく、同時代の確実な史料はない。明成は明友の庇護のもとで藩政に口出しせずに余生を送り、万治4年(1661年)1月に死去した。
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