所領没収とその後とは? わかりやすく解説

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所領没収とその後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/22 15:48 UTC 版)

原田信種」の記事における「所領没収とその後」の解説

天正13年1585年10月豊臣秀吉惣無事令出して九州諸大名停戦命じたが、これに従ったのは大友義統筑紫広門立花統虎高橋紹運のみであった同族秋月種実が板並左京亮島津氏遣わして服属すると、信種もこれに倣った。(隆信の子龍造寺政家人質出して降ったので、筑後龍造寺配下国衆尽く島津従った天正14年1586年3月島津義久鹿児島出陣し肥前侵攻開始した島津忠隣らに筑紫広門の篭もる勝尾城攻囲させ、島津忠長伊集院忠棟高橋紹運の篭もる岩屋城攻囲させる。信種も岩屋城の戦いへの参加促されるが、富田国茂(大膳亮)・有田宗良・波多江種豊・種時家臣代わりに出陣させた。 同年8月秀吉九州征伐が始まると、黒田孝高安国寺恵瓊先導に、毛利輝元吉川元春小早川隆景大軍筑前上陸した原田家臣団宮部継潤浅野長政使者遣わして降参意思があることを伝え、信種に降伏進言したが、信種は拒否して諸城守り固めさせた。小早川隆景高祖城包囲して降伏勧告した。信種は依然として島津援軍待って籠城する覚悟であったが、寄せ手の中から黒田家家臣久野重勝四郎兵衛)が鴾毛の馬にまたがって一番駆けをしてきたのに驚き飯盛城方角に無数の旗指物立っていて大軍接近してくるのに肝を潰して結局は戦わず投降することを決意した12月秀吉この手柄を喜び久野重勝一番乗り朱印状与え高祖城毛利勢の三将に与えることにした。信種は城を退去し高祖城この後破却された。 天正15年1587年3月秀吉九州着陣した。信種は4月12日高良山秀吉拝謁し赦免されたが、所領問われた際に、有りの儘報告すれば領地過分として没収される思い所領過少に申告した秀吉は信種に筑後国上妻郡領主黒木家永遺領の内、300町分である1万8千石与え筑後国替えとして、隣接する肥後の国大名とされた佐々成政与力とした。しかし信種は実は怡土郡志摩郡早良郡の3郡を領しており、それを知った秀吉は「小身にては家を立てること無用と言って遅参理由旧領没収してしまった。 天正16年1588年)、肥後国人一揆起こった責任を取らされて成政が切腹命じられると、信種は肥後北半国を与えられ加藤清正与力となった文禄元年1592年)の文禄の役から慶長3年1598年)の慶長の役まで、清正配下として朝鮮出兵した。 『大蔵朝臣原田家歴伝』ではこの慶長3年第二次蔚山城の戦いにおいて、信種は9月24日戦死したとする。しかし『大藏姓原田氏編年史料』の広渡正利は、慶長年間生存確認できないとして、信種の死没時期文禄5年慶長元年)の10月以前主張している。史料見地からは広瀬説の方が有力であるが、この頃には清正隊はすでに帰国しており、信種の所在不明で、死所未詳である。 一方で、信種には、降倭(朝鮮への降将となって鉄砲技術伝えて日本軍戦った沙也可(後の金忠善伝説の実際人物ではないかという説もあるが、文禄5年まで史料からは存在確認できるため、信種が沙也可ありえない考えられる

※この「所領没収とその後」の解説は、「原田信種」の解説の一部です。
「所領没収とその後」を含む「原田信種」の記事については、「原田信種」の概要を参照ください。

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