所領没収とその後
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天正13年(1585年)10月、豊臣秀吉が惣無事令を出して九州の諸大名に停戦を命じたが、これに従ったのは大友義統・筑紫広門・立花統虎・高橋紹運のみであった。同族の秋月種実が板並左京亮を島津氏に遣わして服属すると、信種もこれに倣った。(隆信の子)龍造寺政家も人質を出して降ったので、筑後の龍造寺配下の国衆も尽く島津に従った。 天正14年(1586年)3月、島津義久は鹿児島を出陣して肥前侵攻を開始した。島津忠隣らに筑紫広門の篭もる勝尾城を攻囲させ、島津忠長・伊集院忠棟に高橋紹運の篭もる岩屋城を攻囲させる。信種も岩屋城の戦いへの参加を促されるが、富田国茂(大膳亮)・有田宗良・波多江種豊・種時ら家臣を代わりに出陣させた。 同年8月に秀吉の九州征伐が始まると、黒田孝高・安国寺恵瓊を先導に、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景の大軍が筑前に上陸した。原田の家臣団は宮部継潤・浅野長政に使者を遣わして降参の意思があることを伝え、信種に降伏を進言したが、信種は拒否して諸城の守りを固めさせた。小早川隆景は高祖城を包囲して降伏を勧告した。信種は依然として島津の援軍を待って籠城する覚悟であったが、寄せ手の中から黒田家の家臣・久野重勝(四郎兵衛)が鴾毛の馬にまたがって一番駆けをしてきたのに驚き、飯盛城の方角に無数の旗指物が立っていて大軍が接近してくるのに肝を潰して、結局は戦わずに投降することを決意した。12月、秀吉はこの手柄を喜び、久野重勝に一番乗りの朱印状を与え、高祖城は毛利勢の三将に与えることにした。信種は城を退去し、高祖城はこの後に破却された。 天正15年(1587年)3月、秀吉が九州に着陣した。信種は4月12日に高良山で秀吉に拝謁して赦免されたが、所領を問われた際に、有りの儘を報告すれば領地過分として没収されると思い、所領を過少に申告した。秀吉は信種に筑後国上妻郡の領主黒木家永の遺領の内、300町分である1万8千石を与え、筑後に国替えとして、隣接する肥後の国持大名とされた佐々成政の与力とした。しかし信種は実は怡土郡・志摩郡・早良郡の3郡を領しており、それを知った秀吉は「小身にては家を立てること無用」と言って、遅参を理由に旧領を没収してしまった。 天正16年(1588年)、肥後国人一揆が起こった責任を取らされて成政が切腹を命じられると、信種は肥後北半国を与えられた加藤清正の与力となった。 文禄元年(1592年)の文禄の役から慶長3年(1598年)の慶長の役まで、清正の配下として朝鮮に出兵した。 『大蔵朝臣原田家歴伝』ではこの慶長3年の第二次蔚山城の戦いにおいて、信種は9月24日に戦死したとする。しかし『大藏姓原田氏編年史料』の広渡正利は、慶長年間の生存を確認できないとして、信種の死没時期は文禄5年(慶長元年)の10月以前と主張している。史料的見地からは広瀬説の方が有力であるが、この頃には清正隊はすでに帰国しており、信種の所在は不明で、死所も未詳である。 一方で、信種には、降倭(朝鮮への降将)となって鉄砲の技術を伝えて日本軍と戦った沙也可(後の金忠善)伝説の実際の人物ではないかという説もあるが、文禄5年まで史料からは存在が確認できるため、信種が沙也可でありえないと考えられる。
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