刑死・自刃・戦死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 19:04 UTC 版)
「関ヶ原の戦いの戦後処理」の記事における「刑死・自刃・戦死」の解説
関ヶ原の敗戦で命を落とした武将は以下の通りである。刑死したのは首謀者の石田三成と総大将・毛利氏の戦争責任をも負う形となった安国寺恵瓊、キリスト教の教義により自刃が許されない小西行長であるが、原長頼も同日・同じ場所で斬首されている。理由は不明であるが異説もある。自刃を命じられた武将としては五奉行の一人・長束正家や三成の女婿である福原長堯、丹後田辺城攻略軍総大将を務めた小野木重勝などがいる。刑死・自刃した大名家は概ね家名断絶となった。例えば、室町幕府四職を務めた名家・赤松氏は本宗家の赤松則英と、分家筋の斎村政広(赤松広英)がそれぞれ自刃を命じられ、赤松氏は宝永年間まで御家断絶の憂き目に遭った。これらの武将は何れも京都・三条大橋に首を晒されている。大身の武将は三成・行長程度で、後は概ね1万石から2万石程度の小大名が多く自刃を命じられており、京極高次が籠った大津城の戦いに参加した西軍の小大名が目に付く。 落城に伴う自刃や戦死では8月4日に前田利長・前田利政兄弟の大軍によって大聖寺城を攻め落とされた山口正弘・修弘父子が西軍初の武将級戦死者であり、8月22日に福島正則や池田輝政など東軍先鋒部隊によって居城の竹ヶ鼻城を攻め落とされた杉浦重勝がこれに続いた。本戦では大谷吉継が平塚為広・戸田勝成と共に小早川秀秋ら裏切り組と激戦の末に戦死、「島津の退き口」と言われる島津義弘の退却戦において島津豊久ら島津軍のほとんどが戦死している。その後佐和山城の石田一族や伊勢亀山城の岡本良勝父子などが落城後に自刃した。大垣城では守将であった垣見一直や木村由信などが相良長毎、秋月種長ら九州の諸大名による寝返りにより、城内で謀殺されている。 ここに挙げられた大名家は全て改易・所領没収となり、その後の復活もなく一部は旗本や諸藩の藩士となった家もあるが、大抵は歴史の表舞台から姿を消した。 武将名領地石高(石)合戦での動向合戦後の動向備考赤松則英 阿波住吉 10,000 近江佐和山城守備 10月1日、京都戒光寺で自刃。 赤松氏宗家は断絶。傍系石野氏より宝永年間に赤松範恭が家名を再興する。 安国寺恵瓊 伊予国内 60,000 本戦 10月1日、京都六条河原にて斬首。 安芸武田氏断絶。 生熊長勝 近江国内 30,000 尾張犬山城守備 常陸松岡城に幽閉され自刃。 子孫は水戸徳川家に仕官し、水戸藩士となる。 生駒修理亮 - - 大坂備後橋守備 石川頼明隠匿の罪で自刃。 生駒親正の弟。実名不詳。 石川頼明 播磨・丹波国内 12,000 近江大津城攻撃 10月7日、自刃。 石田正澄 近江・河内国内 25,000 近江佐和山城守備 9月17日、落城時自刃。 石田三成の兄。 石田正継 近江国内 30,000 近江佐和山城守備 9月17日、落城時自刃。 石田三成の父。 石田三成 近江佐和山 194,000 本戦 西軍主将。10月1日六条河原にて斬首。 嫡男・重家は出家、二男・重成は津軽氏に仕官し、子孫は弘前藩重臣。 宇多頼忠 大和・河内国内 13,000 近江佐和山城守備 9月17日、落城時自刃。 大谷吉継 越前敦賀 50,000 本戦 小早川秀秋軍と戦い、戦死。 嫡男・吉治は大坂の陣で豊臣方に与し戦死。三男・泰重の子孫が福井藩士となる。 岡本良勝 伊勢亀山 22,000 伊勢亀山城守備 9月16日、開城時に自刃。 嫡男・重義も近江水口で自刃。 小野木重勝 丹波福知山 31,000 丹後田辺城攻撃 10月18日、丹波亀山浄土寺で自刃。 井伊直政の進言で助命されかけたが、細川忠興の強請により自刃。 加賀井某 美濃加賀井 10,000 美濃大垣城守備 水野勝成に処刑される。 父・重望は本戦前に三河池鯉鮒の饗宴で水野忠重(勝成の父)を殺害し堀尾吉晴を負傷させた後斬殺される。実名不詳。 垣見一直 豊後富来 20,000 美濃大垣城守備 9月18日、秋月種長らの裏切りで殺害。 垣屋恒総 因幡浦住 10,000 近江大津城攻撃 高野山で自刃。 孫・吉綱が紀州徳川家に仕官し、子孫は紀州藩士となる。 河尻秀長 美濃苗木 10,000 本戦 本戦で戦死。 弟・鎮行が徳川氏に仕官し、子孫は旗本となる。 木下重堅 因幡若桜 20,000 近江大津城攻撃 10月13日、摂津一心院で自刃。 木村由信 美濃北方 10,000 美濃大垣城守備 9月18日、秋月種長らの裏切りで殺害。 嫡男・豊統も同時に殺害される。 九鬼嘉隆 伊勢国内 5,000 嫡男・守隆と交戦 10月12日、答志島で自刃。 家康の赦免を守隆が届ける直前で自刃。 熊谷直盛 豊後安岐 15,000 美濃大垣城守備 9月18日、秋月種長らの裏切りで殺害。 小西行長 肥後宇土 200,000 本戦 10月1日、京都六条河原にて斬首。 嫡男・兵庫頭は毛利輝元により斬首。 斎村政広 但馬竹田 22,000 丹後田辺城攻撃 10月28日、自刃。 降伏後鳥取城攻撃を家康より命じられるが、城下焼き払いの咎で切腹させられる。 島津豊久 日向高城 28,000 本戦 退却中、牧田烏頭坂で戦死。 子孫は薩摩藩重臣。所領は一門の以久が継承する。 杉浦重勝 美濃竹ヶ鼻 8,000 美濃竹ヶ鼻城守備 8月22日、落城時に自刃。 戸田勝成 越前安居 10,000 本戦 織田長孝軍と戦い、戦死。 嫡男・内記も関ヶ原本戦で討ち死に。 長束直吉 近江国内 10,000 本戦 10月3日、開城後自刃。 長束正家の弟。子孫は浅野氏に仕官し、広島藩士となる。 長束正家 近江水口 50,000 本戦 10月3日、開城後自刃。 嫡男・半左衛門は細川忠興に仕官し、子孫は熊本藩士となる。 原長頼 美濃太田 30,000 美濃太田城守備 10月1日、京都六条河原にて斬首。 10月13日に自刃したという説もある。 平塚為広 美濃垂井 10,000 本戦 小川祐忠軍と戦い、戦死。 子孫は紀州徳川家に仕官し、紀伊藩士を経て8代将軍徳川吉宗の時に旗本となる。 福原長堯 豊後荷揚 30,000 美濃大垣城守備 9月28日、蟄居先の伊勢朝熊山で自刃。 松浦久信 伊勢井生 11,000 近江大津城攻撃 大津城攻撃中に戦死。 山口修弘 加賀江沼郡内 13,000 加賀大聖寺城守備 8月4日、落城時戦死。 山口正弘の嫡男。 山口正弘 加賀大聖寺 50,000 加賀大聖寺城守備 8月4日、落城時戦死。 二男・弘定は大坂の陣で豊臣方に与し、戦死。 和賀忠親 - - 陸奥花巻城攻撃 陸奥国分寺で自刃。 伊達政宗の援助により挙兵し旧領回復を狙うも失敗。戦後、江戸召喚の途上で自刃。
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