所領争いとは? わかりやすく解説

所領争い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 02:26 UTC 版)

工藤祐経」の記事における「所領争い」の解説

幼少期に父・祐継が早世すると、父の遺言により義理叔父である伊東祐親後見人となる。元服ののち、祐経は祐親の娘・万劫御前を娶り、祐親に伴われ上洛平重盛仕える。歌舞音曲通じており、「工藤一臈」と呼ばれた。だが、祐経が在京している間に祐親は祐経が継いだ伊東荘を押領してしまい、妻の万劫御前をまで奪って土肥遠平に嫁がせてしまう。祐親は祖父かつ養父工藤祐隆嫡孫自分差し置いて養子の祐継に伊東荘を相続させたことに不満を抱いていたためである。押領気付いた祐経は都で訴訟繰り返すが、祐親の根回しにより失敗に終わる。 所領と妻をも奪われた祐経は祐親を深く怨み、祐親の殺害図って安元2年1176年10月郎党命じ伊豆奥野狩り場から帰る道中の祐親父子を襲撃させ、祐親を討ち漏らすも祐親の嫡男河津祐泰射殺する。跡には祐泰の妻と子一萬丸(曾我祐成)と箱王(曾我時致)の兄弟残された。妻は子を連れて曾我祐信再嫁し、兄弟は後に曾我兄弟として世に知られる事になる。 治承4年1180年8月源頼朝挙兵後、平家方として頼朝敵対した祐親は、10月富士川の戦い後に頼朝方に捕らえられ自害した。祐経の弟とされる宇佐美祐茂頼朝の挙兵当初から従い富士川の戦い戦功本領安堵されており、祐経は京から鎌倉下って頼朝臣従し、祐茂を通して伊東父子亡き後伊東荘を取り戻した考えられる。 なお、祐経による祐親・祐泰父子襲撃そのもの頼朝による教唆があった(頼朝遺恨を抱く伊東父子襲撃したことが、後に祐経が頼朝重用され一因である)とする保立道久の説がある。

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所領争い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 02:25 UTC 版)

伊東祐親」の記事における「所領争い」の解説

伊東荘を領する工藤祐隆嫡男であった父・伊東祐家早世すると、祖父・祐隆(法名寂心)は後妻連れ子である継娘産んだ子(その実父は祐隆本人ともされる)である伊東祐継を養子とし、嫡男として本領伊東荘を与え同じく養子にした孫の祐親には次男として河津荘を与えた嫡孫として約束されたはずだった総領地位奪われたことに不満を持つ祐親は、祐継の死後その子・祐経が上京している間に伊東荘を奪った上、祐経に嫁がせた自身の娘・万劫御前とも離縁させてしまった。 これを深く恨んだ祐経は安元2年1176年10月郎党命じて狩りの場にいた祐親を襲撃させる。刺客放った矢は祐親を外れたが、共にいた嫡男河津祐泰射殺され、これがのちに祐親の孫達が起こす曾我兄弟の仇討ち原因となる。

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