逸話・伝説
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家紋の由来 久下氏の家紋は「一番」という文字であるが、その由来が『太平記』に記されている。 足利尊氏が丹波篠村八幡宮で挙兵したとき、久下時重が250騎を率いて真っ先にはせ参じた。その旗印に「一番」とあるのを不審におもった尊氏がその由来を尋ねた。高師直が、「源頼朝が土肥の杉山で挙兵したさい、久下重光が一番にはせ参じた。頼朝は、もし天下を取ったならば一番に恩賞を与えよう、と「一番」という文字を書いて与え、やがてそれを家の紋としたのである」とこたえた。尊氏は、それは吉例であると喜んだという。 熊谷直実との所領争い 建久3年(1192年)11月25日、熊谷直実と久下直光が所領の相論のため、頼朝の前で議論をおこなった。直実はうまく答弁できず、頼朝はすこぶる不審に思ったのだが、判決がでない内に直実は書類等を頼朝になげつけ、憤怒のあまり髻をきり遁世に及び、居宅にも戻らず西に向けて逐電したという(『吾妻鏡』)。 1300年(正安2年)、当時の熊谷氏当主・熊谷直満と久下氏の当主・久下光直が和解に至り、108年に及ぶ争いに終止符を打った。
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逸話・伝説
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その生涯についての情報は伝説的な内容も多分に含まれているが、1256年にモンゴル帝国のフレグの遠征によってニザール派第8代教主ルクヌッディーン・フルシャー(ペルシア語版)の降伏によってアラムート城塞は陥落し、モンゴル軍によりアラムートのニザール派の文書群も接収された。この文書群のなかにはハサン・サッバーフ自身がニザール派教団に対して発した教令や宗教関係の著作などが含まれていたという。ここにはハサンの自伝もあり、フレグに扈従してこのニザール派文書の接収を担当したアラーウッディーン・アターマリク・ジュヴァイニーは自著『世界征服者史』のイスマーイール派史の部分でハサンのこの伝記を引いて説明している。イランの伝統的な歴史学でイスマーイール派の歴史が語られる場合、このジュヴァイニーの情報に多く依拠している。 アラムートを占拠してからハサン・サッバーフは城塞の一角に設けられた自室から殆ど出ることはなく、常に禁欲的生活とニザール派の教義に関する著作活動と教団内外への各種の政策の指事に費やしたと言われている。13世紀前半に大部の歴史書『完史』を著したイブン・アル=アスィールはハサン・サッバーフを評して、「明敏、有能にして、幾何学、数学、魔術その他に精通した人物」と述べており、フレグによるニザール派の滅亡以前に、有能にして博覧強記ながら「魔術」など神秘的でイスラームの正道から外れたいかがわしい才能を持つ人物として見られていたことが伺われる(これは著者自身や『完史』を献呈した相手であるモースルのアタベクなどがスンナ派であったことも注意せねばならない)。
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逸話・伝説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 04:22 UTC 版)
鉄の塊から鋭利な刃物を作る技術者である彼らは、しばしば神秘的な存在としてみられた。たとえば、正宗には「刀の切れ味を決める焼き入れの際の水の温度を知ろうとして水に手を触れた弟子の手を斬って落とした」、小鍛冶宗近の「小狐丸」には稲荷大明神の化身が作刀を手伝ったなどの逸話がある。他にも伝説上の刀工「天国」は日本刀剣の祖とされ、平家重代の宝刀「小烏丸」や江戸亀戸天神の宝剣も天国の作といわれる。特に後者は「一度鞘から抜き放てば必ず豪雨を呼ぶ」という逸話も残されている。 また、日本の古い物語上で土蜘蛛あるいは鬼といった妖怪として退治されていった者たちは、この製鉄に関わる者たちであったという説もある(沢史生説)。信仰のなかに火男がおり、天目一箇神や一つ目小僧、産婆との関係も論じられている。
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