文書群
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/16 22:13 UTC 版)
「和田家文書 (和田喜八郎)」の記事における「文書群」の解説
もともと和田喜八郎の家に伝わった古文書と称するものの総称とされていた語は「東日流外三郡誌」であった。しかし、その後の和田の「構想」の拡大で、明確に「東日流外三郡誌」以外の題を冠した古文書(実際には偽書)が和田喜八郎の手元からぞくぞくと出てくるようになった。「東日流六郡誌絵巻」「東日流六郡誌大要」「東日流内三郡誌」「北鑑」「北斗抄」「丑寅日本記」「奥州風土記」などである。そのため相互では内容が矛盾するものも少なくなかった。 ただし、「東日流外三郡誌」と題さないそれらの文書も『東日流外三郡誌』と同じ筆跡や共通の用語、重複した説話を含んでおり、内容的には『東日流外三郡誌』の姉妹編とみなしてさしつかえない。 なお、偽書と指摘される理由であるが、否定派から次のようなものがある。まず和田は原本を曾祖父や祖父が書き写したものを「公開」したと主張したが、筆跡が和田のそれと酷似しているうえに同じ誤字があった。また「洗脳」などの昭和時代中期以降になって使われるようになった単語や、「冥王星」や「準星」といった20世紀以降に知られるようになった科学知識が入り込んでいた。 特に作為が疑わしい箇所は、1994年に縄文時代最大の集落跡と確認された青森市の三内丸山遺跡に関する部分について、1995年以降に公開された和田家文書に記述があるものの、それ以前に公開された文書には記述が全く無い点である。古田武彦は、三内丸山遺跡発見以前に活字化された和田家文書の中の「石神殿」の記述は、三内丸山遺跡に当たるとの説明を行っているが、いわゆる三内丸山遺跡についての直接記述が1995年以降発表の和田家文書にのみ存在するという事実は動かしようがない。 その後、和田喜八郎没後に、古田武彦によって発見・公開された「寛政原本」とされるものも、原田実は和田の筆跡と変わらないと指摘しており、またこの「寛政原本」はそれ以前に発表された和田家文書と一致する内容はなく、その意味で原本とは言えないものである。
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