活字化
活字化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/29 07:46 UTC 版)
著者手稿の原本は末裔の宮原國雄氏から福山義倉図書館に寄贈され、写本も旧制福山中学校(現、広島県立福山誠之館高校)経由で、同図書館に寄贈された。郷土史家得能正通が活字製本化を企図し、所蔵の原本を1927年(昭和2年)8月から数度にわたり借用し、活字化が行われた。『備後叢書』に収録され、1928年(昭和3年)に出版された。
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活字化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/29 07:44 UTC 版)
明治以降、原本は東京阿部伯爵家が所有していた。郷土史家の得能正通が東京阿部伯爵家の事務を行っていた福山の晩翠舎を介して原本を借用の上謄写と活字化を行い、1910年(明治43年)4月に上下2冊として刊行された。彼が「而も其の計画及び費用は余の負擔にかかる。」と記しているように、得能正通自身が企画し、自費出版したものであった。 1909年(明治42年)2月12日 - 得能正通が晩翠舎を訪問し家従と面会し、原本借用を交渉。 1909年(明治42年)6月25日 - 原本が晩翠舎経由で得能正通に貸し出され、謄写開始。 1909年(明治42年)10月15日 - 巻第一から巻第十一までの原稿を印刷所(大阪龍雲舎)に送付。 1910年(明治43年)4月30日 - 友人の石井貞之介の名で刊行。
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活字化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/29 07:42 UTC 版)
昭和初期になって郷土史家の得能正通により活字製本化が行われ、『備後叢書』に収録された。 最初は著者自筆原本が得られなかった。第一巻のみ吉備津神社奉納の原本が得られたものの、外は中戸千葉之進氏所蔵の写本を底本として、沼名前神社宮司の金原利通や吉備津神社宮司の追林順太郎、安那郡の土肥七郎らの所蔵本を借り受け参照しながた校訂を進めた。また不明文字については文学博士和田英松に照会をするなど、方々の人脈を活用した。 45巻、46巻、48巻は、同年7月10日により所蔵本を借り受けて校訂を進めた。印刷着手の後において、ようやく原本を借覧することができ、その大体において照較した。一字一句を対照して更に校訂したのは、実にその発刊後であった。しかも深津郡のうち巻第27は原本散佚のため、写本のままである。ただし、原本の方が誤りであるという部分も多かった。 原本の大部分は、吉備津神社に奉納されたが、何らかの理由で著者裔孫の家に回収され、山手村の三谷家本宅に保存されていた。交渉の末、1931年(昭和6年)1月21日のようやく閲覧することができた。 1931年(昭和6年)7月7日、『備後叢書』の第五巻として、初巻ー序、凡例、引用書目、惣編目録、巻25~31(深津郡)、巻32~36(安那郡)が発行された。
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