逸話・伝承とは? わかりやすく解説

逸話・伝承

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 08:10 UTC 版)

北条氏康」の記事における「逸話・伝承」の解説

@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}12歳の頃、武術調練見ていて気を失った。気を取り戻すと「家臣の前で恥を曝した」として自害しようとしたが、家老清水某が「初めて見るものに驚かれるのは当然で恥ではございません。むしろあらかじめの心構え大切なのです」と忠言した。以後、氏康は常に心構えわきまえて堂々としていたという(三浦浄心北条五代記』)[要検証ノート]。 「三世の氏康君は文武兼ね備えた名将で、一代のうち、数度合戦負けたとがないそのうえに仁徳があって、よく家法発揚したので、氏康君の代になって関東八ヶ国の兵乱平定し大い北条家名高めた。その優れた功績古今名将というにふさわしい」と評価されている(『北条記』)。 後世成立軍記逸話としてであるが、夏に氏康が高楼涼んでいると鳴き、これを聞いた近習が「夏鳴く聞けば、身に不吉起る」と告げたため、即興で歌を詠み、「きつね」を句によって分けた歌で凶を返したため、翌朝倒れて死んでいたという。 夏はきつ ねになくのから衣 おのれおのれが身の上にきよ — 小田原北条記、北条氏康 小田原市谷津には、この夏逸話元亀元年とし、その後の霊が北条家臣に憑いて、調伏された恨みから災い起す訴え翌年に氏康が死んだことを祟り考えた氏政が老の霊を祀って供養したという縁起を持つ「北条稲荷」が在る部下への教訓として「酒は朝に飲め」という言葉を残している。これは、寝る前の飲酒深酒をしやすく、失敗つながりやすい、ということから。

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逸話・伝承

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/07 21:50 UTC 版)

仙石久邦」の記事における「逸話・伝承」の解説

仙石久邦領地である上野国碓氷郡磯部村では、水利が不便で、農民水不足悩んでいた。そこで領主であった久邦によって明暦4年(1658年)に用水工事計画開始されたが、この工事他領であり、隣村である人見流れ碓氷川に堰を作り磯部村用水を引くというものであり、当時人見領主であった吉良氏にはこれらの工事何ら益がないことであったこともあり、領地接す吉良氏反対妨害にあい、工事寛文6年(1666年)から寛文8年(1668年)の間、難航頓挫したこのため、この吉良氏からの親子二代にわたる妨害退けるためにも、直接幕府の力によって行うよりなしとし、久邦は自らの領地幕府返し領地替え願い出て寛文9年1669年)に、久邦の領地上野国甲斐国采地から摂津国島下郡西成郡河内国渋川郡大県郡改められ移された。そして、これにより磯部村幕府領となったので、幕府代官指揮幕府直営工事により、寛文13年(1673年)に人見堰が完成し磯部村村内二百町歩(二百ヘクタール)の水田灌漑することができた。そのため、村民は久邦の徳を慕い、永宝元年(1673年)12月に久邦の生祠を建て、稲葉大権現として祭り、その徳をたたえた。そして、こうして建立され石祠頌徳碑などの関連史跡は、現在では安中市指定史跡となっている。

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逸話・伝承

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 23:34 UTC 版)

天狗党の乱」の記事における「逸話・伝承」の解説

田中愿蔵は、塙の代官所から処刑場である久慈川河原まで連行され道すがら馬上下記の歌を繰り返し高唱したという。 みちのく山路に骨は朽ちぬとも猶も護らむ九重の里 諸生党によって斬首された田丸稲之衛門次女八重は、まだ17歳若さながら下記の句を残した。 引きつれて死出の旅路も花ざかり 天狗党参加した常陸久慈僧侶不動院全海は、その剛力から「今弁慶」と呼ばれていたが、和田峠戦いで討死した。この時、高島藩士・北沢与三郎(東山一作とも)はその力にあやかろうと全海の死体から肉を切り取り持ち帰って味噌漬けにして炙って食べた。それを聞いた同じ高島藩士の飯田守人は、「人肉食らうとは以ての外」として北沢絶交したという。のちに二人和解して赤報隊援助をしている。 渋沢栄一は、藤田小四郎筆頭として天狗党員には知己数多くいた。その中の一人信州飯田郷士薄井龍之藤田から命を受けて京都一橋慶喜家臣勤めていた渋沢ひそかに面会行ったが、天狗党との関係が露見することを怖れ渋沢追い払われた。 敦賀古老身近な人々語った戦時中頃か)ことによれば天狗党処刑公開行われたので見物行ったが、引き出され党員逃亡阻止するためか両足を竹に括られていたという。 天狗党処刑の際には、彦根藩士が志願して首斬り役を務め桜田門外の変殺され主君直弼無念晴らした。またこの時、福井藩士にも首斬り役が割り当てられたが、後々報復恐れた春嶽が命令して役目辞退させた。 永原甚七郎は明治5年1872年)に、自らの菩提寺である金沢棟岳寺天狗党供養碑建立した。これは今日水府義勇塚」と称されている。なお、天狗党処刑の報に接した永原が、自分説得なければ天狗党無残に殺させずに済んだ激し自責の念駆られ精神病んで死んだという話が後に創作されたが、実際永原明治2年1869年)から学政寮・軍政寮の副知事務めるなど、引き続き金沢藩重臣として政務奔走し明治6年1873年)に61歳死去している。 水戸など茨城県一部地域では、身内で争うことを「天狗」と呼ぶことがある慶応3年1867年)に起きた出流山事件では、挙兵し浪士たちが天狗党連想させたため、当時の周辺住民により「出流天狗」と呼ばれた天狗党処刑地である敦賀市は、昭和40年1965年)に水戸市姉妹都市となっている。悲惨な待遇処刑幕府軍が行ったもので、地元小浜藩当時から同情的であったとされている。

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逸話・伝承

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/17 10:08 UTC 版)

藤原景清」の記事における「逸話・伝承」の解説

伝承によれば名刀と言われるあざ丸所有者であったという。「あざ丸」の「あざ」は、景清がこの刀に映った自身の顔を見た際、顔のあざが見えた事に由来するという。 軍記物語『太平記』では、三毒のうち癡(無知妄想愚蒙)を司る「癡」という同名妖刀所持していたが、壇の浦の戦いの際に海中落とした物語られる。詳細楠木正成#怨霊伝説

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逸話・伝承

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 15:20 UTC 版)

古田重然」の記事における「逸話・伝承」の解説

織部の名が茶会記初め記録されるのが天正11年1583年)の40歳の時とかなり遅いことから、若い頃茶の湯興味がなかったとする説がある。 天正10年1582年)から千利休書簡織部若年時通称・左介が見える。この間利休知り合い弟子入りしたものと考えられ、のちに利休七哲数えられている。天正19年1591年)に秀吉によって利休追放が決まると利休親交のあった諸将秀吉憚って現れない中、織部細川忠興三斎)のみが堂々と利休見送り行った利休死後は、天下一茶人となった細川忠興に刀を借りため書状を送っているが、大きすぎると困るなど細かな要望書いている。これは後陽成天皇即位式参加する際に帯びたとされる。なお差出人は「左助」と書かれている松屋久重編の「古織公伝書」(『茶道祖伝書』)には佐久間不干斎(信栄)からの伝聞として「織部初め茶の湯大嫌いであったが、中川清秀そそのかされ上々数寄者になった」と記されている。 職人陶工らを多数抱え創作活動を競わせ、自らはいわば茶の湯コーディネーターとして指導あたった織部連歌のほか、大鼓将棋古田織部美術館文書)を得意とした。 慶長4年1599年3月6日には、金森可重小堀遠州(政一)、石川貞通などの武士津田宗凡などの堺・京の町衆たち30人吉野花見催したその時、荷(にない)茶屋に「利休妄魂」の額を掲げた浅野幸長とのやり取りをまとめた『茶道長問織答抄』に、「こんなに高齢なのに、どうして西へ東へ飛び回らねばならぬだろうかこれでは病気になろうというものだ。寒い大坂に行くのも茶の湯のせいだ」と答えている。 織部の妻・仙が隠棲した北野天満宮隣りの青霄院が、仙の死後西堀川の興聖寺移転して塔頭となり、その後豊後岡藩家老古田家が織部その子らの墓を建てている。 また、茶話真向翁』や『茶話指月集』等により、以下のような逸話伝わっている。 利休弟子達の集まっている席で「瀬田の唐橋擬宝珠中に見事な形のものが2つあるが、見分けられる人はいないものか?」と訊ねた。すると一座にいた織部急に席を立ってどこかに行って夕方になって戻ってきた。利休何をしていたのか訊ねると「例の擬宝珠見分けてみようと思いまして早馬瀬田参りましたさて、2つ擬宝珠は東と西のこれではありませんか?」と答えた利休をはじめ一座の者は織部執心の凄まじさに感心した利休茶入象牙で作らせたところ、窠(ス)という疵があった。恐縮する細工人に対して利休は「これは面白いものを作ってくれた」と喜ぶことで慰め織部呼んで茶会催した利休その際の窠を勝手側に向けつまみの外側茶杓置いて点前進めた。すなわち織部のほうに茶杓置いたのである茶会のあと、織部はその茶入利休乞う持ち帰り今度利休茶会招いて茶入の窠を客のほうに向けつまみの内側茶杓置いた利休は「さてもよくやった。織部ほど作意のできる茶人はまたとあるまい」と述べて褒め称えた織部薄板を敷かずに籠の花入を置いていたのを利休褒めて「籠の花入を薄板乗せることは昔から皆やって来たことだが、私はどうも面白くない思っていた。このことに関しては私があなたの弟子になりましょうと言った。それから利休薄板を敷かずに直に籠の花入を置いていたという。 織部大坂の陣佐竹義宣の陣にいた際、月夜明るい日に茶杓材料求めて竹藪入った。そこで大坂方が織部鉄砲撃ったところ弾は左目の上かすめて負傷した。そこで織部は、家康からを賜っている。

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