逸話・伝承
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@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}12歳の頃、武術の調練を見ていて気を失った。気を取り戻すと「家臣の前で恥を曝した」として自害しようとしたが、家老の清水某が「初めて見るものに驚かれるのは当然で恥ではございません。むしろあらかじめの心構えが大切なのです」と忠言した。以後、氏康は常に心構えをわきまえて堂々としていたという(三浦浄心『北条五代記』)[要検証 – ノート]。 「三世の氏康君は文武を兼ね備えた名将で、一代のうち、数度の合戦に負けたことがない。そのうえに仁徳があって、よく家法を発揚したので、氏康君の代になって関東八ヶ国の兵乱を平定し、大いに北条の家名を高めた。その優れた功績は古今の名将というにふさわしい」と評価されている(『北条記』)。 後世成立の軍記の逸話としてであるが、夏に氏康が高楼で涼んでいると狐が鳴き、これを聞いた近習が「夏狐が鳴くを聞けば、身に不吉が起る」と告げたため、即興で歌を詠み、「きつね」を句によって分けた歌で凶を返したため、狐は翌朝に倒れて死んでいたという。 夏はきつ ねになく蝉のから衣 おのれおのれが身の上にきよ — 小田原北条記、北条氏康 小田原市谷津には、この夏狐の逸話を元亀元年とし、その後に狐の霊が北条の家臣に憑いて、調伏された恨みから災いを起すと訴え、翌年に氏康が死んだことを祟りと考えた氏政が老狐の霊を祀って供養したという縁起を持つ「北条稲荷」が在る。 部下への教訓として「酒は朝に飲め」という言葉を残している。これは、寝る前の飲酒は深酒をしやすく、失敗につながりやすい、ということから。
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逸話・伝承
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仙石久邦の領地である上野国碓氷郡人磯部村では、水利が不便で、農民が水不足に悩んでいた。そこで領主であった久邦によって明暦4年(1658年)に用水工事が計画・開始されたが、この工事が他領であり、隣村である人見村に流れる碓氷川に堰を作り、磯部村に用水を引くというものであり、当時の人見村の領主であった吉良氏にはこれらの工事に何ら益がないことであったこともあり、領地を接する吉良氏の反対・妨害にあい、工事は寛文6年(1666年)から寛文8年(1668年)の間、難航・頓挫した。このため、この吉良氏からの親子二代にわたる妨害を退けるためにも、直接幕府の力によって行うよりなしとし、久邦は自らの領地を幕府に返し、領地替えを願い出て、寛文9年(1669年)に、久邦の領地は上野国・甲斐国の采地から摂津国島下郡・西成郡・河内国渋川郡・大県郡に改められ、移された。そして、これにより磯部村は幕府領となったので、幕府の代官の指揮と幕府の直営工事により、寛文13年(1673年)に人見堰が完成し、磯部村の村内二百町歩(二百ヘクタール)の水田を灌漑することができた。そのため、村民は久邦の徳を慕い、永宝元年(1673年)12月に久邦の生祠を建て、稲葉大権現として祭り、その徳をたたえた。そして、こうして建立された石祠・頌徳碑などの関連史跡は、現在では安中市の指定史跡となっている。
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逸話・伝承
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田中愿蔵は、塙の代官所から処刑場である久慈川の河原まで連行される道すがら、馬上で下記の歌を繰り返し高唱したという。 みちのくの山路に骨は朽ちぬとも猶も護らむ九重の里 諸生党によって斬首された田丸稲之衛門の次女・八重は、まだ17歳の若さながら下記の句を残した。 引きつれて死出の旅路も花ざかり 天狗党に参加した常陸久慈の僧侶・不動院全海は、その剛力から「今弁慶」と呼ばれていたが、和田峠の戦いで討死した。この時、高島藩士・北沢与三郎(東山一作とも)はその力にあやかろうと全海の死体から肉を切り取り、持ち帰って味噌漬けにして炙って食べた。それを聞いた同じ高島藩士の飯田守人は、「人肉を食らうとは以ての外」として北沢と絶交したという。のちに二人は和解して、赤報隊の援助をしている。 渋沢栄一は、藤田小四郎を筆頭として天狗党員には知己が数多くいた。その中の一人、信州飯田郷士の薄井龍之は藤田から命を受けて、京都で一橋慶喜の家臣を勤めていた渋沢にひそかに面会に行ったが、天狗党との関係が露見することを怖れた渋沢に追い払われた。 敦賀の古老が身近な人々に語った(戦時中頃か)ことによれば、天狗党の処刑は公開で行われたので見物に行ったが、引き出された党員は逃亡を阻止するためか両足を竹に括られていたという。 天狗党の処刑の際には、彦根藩士が志願して首斬り役を務め、桜田門外の変で殺された主君・直弼の無念を晴らした。またこの時、福井藩士にも首斬り役が割り当てられたが、後々の報復を恐れた春嶽が命令して役目を辞退させた。 永原甚七郎は明治5年(1872年)に、自らの菩提寺である金沢の棟岳寺に天狗党の供養碑を建立した。これは今日「水府義勇塚」と称されている。なお、天狗党処刑の報に接した永原が、自分の説得がなければ天狗党を無残に殺させずに済んだと激しい自責の念に駆られ、精神を病んで死んだという話が後に創作されたが、実際の永原は明治2年(1869年)から学政寮・軍政寮の副知事を務めるなど、引き続き金沢藩の重臣として政務に奔走し、明治6年(1873年)に61歳で死去している。 水戸など茨城県の一部地域では、身内で争うことを「天狗」と呼ぶことがある。 慶応3年(1867年)に起きた出流山事件では、挙兵した浪士たちが天狗党を連想させたため、当時の周辺住民により「出流天狗」と呼ばれた。 天狗党の処刑地である敦賀市は、昭和40年(1965年)に水戸市と姉妹都市となっている。悲惨な待遇や処刑は幕府軍が行ったもので、地元の小浜藩は当時から同情的であったとされている。
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逸話・伝承
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伝承によれば、名刀と言われるあざ丸の所有者であったという。「あざ丸」の「あざ」は、景清がこの刀に映った自身の顔を見た際、顔のあざが見えた事に由来するという。 軍記物語『太平記』では、三毒のうち癡(無知・妄想・愚蒙)を司る「癡」という同名の妖刀を所持していたが、壇の浦の戦いの際に海中に落としたと物語られる。詳細は楠木正成#怨霊伝説。
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逸話・伝承
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 15:20 UTC 版)
織部の名が茶会記に初めて記録されるのが天正11年(1583年)の40歳の時とかなり遅いことから、若い頃は茶の湯に興味がなかったとする説がある。 天正10年(1582年)から千利休の書簡に織部の若年時の通称・左介が見える。この間に利休と知り合い、弟子入りしたものと考えられ、のちに利休七哲に数えられている。天正19年(1591年)に秀吉によって利休の追放が決まると利休と親交のあった諸将が秀吉を憚って現れない中、織部と細川忠興(三斎)のみが堂々と利休の見送りを行った。利休死後は、天下一の茶人となった。 細川忠興に刀を借りるため書状を送っているが、大きすぎると困るなど細かな要望を書いている。これは後陽成天皇の即位式に参加する際に帯びた刀とされる。なお差出人は「左助」と書かれている。 松屋久重編の「古織公伝書」(『茶道四祖伝書』)には佐久間不干斎(信栄)からの伝聞として「織部は初めは茶の湯が大嫌いであったが、中川清秀にそそのかされて上々の数寄者になった」と記されている。 職人や陶工らを多数抱え創作活動を競わせ、自らはいわば茶の湯のコーディネーターとして指導にあたった。 織部は連歌のほか、大鼓、将棋(古田織部美術館文書)を得意とした。 慶長4年(1599年)3月6日には、金森可重、小堀遠州(政一)、石川貞通などの武士、津田宗凡などの堺・京の町衆たち30人と吉野で花見を催した。その時、荷(にない)茶屋に「利休妄魂」の額を掲げた。 浅野幸長とのやり取りをまとめた『茶道長問織答抄』に、「こんなに高齢なのに、どうして西へ東へと飛び回らねばならぬのだろうか。これでは病気になろうというものだ。寒い大坂に行くのも茶の湯のせいだ」と答えている。 織部の妻・仙が隠棲した北野天満宮隣りの青霄院が、仙の死後、西堀川の興聖寺に移転して一塔頭となり、その後、豊後岡藩家老・古田家が織部とその子らの墓を建てている。 また、『茶話真向翁』や『茶話指月集』等により、以下のような逸話が伝わっている。 利休が弟子達の集まっている席で「瀬田の唐橋の擬宝珠の中に見事な形のものが2つあるが、見分けられる人はいないものか?」と訊ねた。すると一座にいた織部は急に席を立ってどこかに行って、夕方になって戻ってきた。利休が何をしていたのか訊ねると「例の擬宝珠を見分けてみようと思いまして早馬で瀬田に参りました。さて、2つの擬宝珠は東と西のこれではありませんか?」と答えた。利休をはじめ一座の者は織部の執心の凄まじさに感心した。 利休が茶入の蓋を象牙で作らせたところ、窠(ス)という疵があった。恐縮する細工人に対して利休は「これは面白いものを作ってくれた」と喜ぶことで慰め織部を呼んで茶会を催した。利休はその際、蓋の窠を勝手側に向けつまみの外側に茶杓を置いて点前を進めた。すなわち織部のほうに茶杓を置いたのである。茶会のあと、織部はその茶入を利休に乞うて持ち帰り、今度は利休を茶会に招いて茶入の蓋の窠を客のほうに向けつまみの内側に茶杓を置いた。利休は「さてもよくやった。織部ほど作意のできる茶人はまたとあるまい」と述べて褒め称えた。 織部が薄板を敷かずに籠の花入を置いていたのを利休が褒めて「籠の花入を薄板に乗せることは昔から皆やって来たことだが、私はどうも面白くないと思っていた。このことに関しては私があなたの弟子になりましょう」と言った。それから利休は薄板を敷かずに直に籠の花入を置いていたという。 織部が大坂の陣で佐竹義宣の陣にいた際、月夜の明るい日に茶杓の材料を求めて竹藪に入った。そこで大坂方が織部に鉄砲を撃ったところ弾は左目の上をかすめて負傷した。そこで織部は、家康から薬を賜っている。
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