逸話・発言
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その茫洋とした顔つきからは想像し難いが、女性問題で苦労しただけに、女性鑑識眼は大したもの、それに無責任なことは言わないからこういう問題にはうってつけと、仲の良い永野重雄が赤坂の美人ホステスにモーションをかけられ、女のアパートに行ったが、美人局かもしれないと遊び友達の大平に女の鑑定を頼んだ。二人でキャバレーに行き意見を聞いたら「あれは危ないからやめときなさい、何となく勘でわかる」と言うからそうしたら、数日後永野の自宅に知らない男が電話してきて「女房が大変お世話になってるそうだな」と凄まれた。「家には行ったが何もしてない」とつっぱねたが危ないところだったという。 以下のような大平の発言が知られている。「東京の人間は郵便番号も書かない馬鹿だ」や「東京に三代住むと白痴になる」などと発言し物議を醸した[要出典]。 訪米の折、当時日米間の懸案となっていた捕鯨問題に関して記者から質問された際、「鯨は大きすぎて、私の手には負えません」と答えて記者たちを大笑いさせ、その質問は立ち消えとなり、また国会での野党の質問に答える際、「私はあーうーですから」といってその場を和ませてから答弁をすることもあり、ユーモアを交えながら場の雰囲気を掴んで和らげる手腕に長けていた[要出典]。 長女(森田一代議士夫人)に対して口癖のように「女子(おなご)は勉強せんでいい。可愛い女になれ。そして早くお嫁に行きなさい」と語っていたといい、こうした言動が『婦人公論』誌で長女により明かされたところ、参議院で市川房枝により女性蔑視として追及された。これに対して、大平は顔をくしゃくしゃにしながら苦笑しつつユーモアたっぷりに答弁し、議場は大爆笑に包まれた。 靖国神社にはA級戦犯が合祀される前に参拝したことがある[要出典]。靖国神社参拝に関して野党から国会で質問されると「大東亜戦争に関する審判は、歴史が下すであろうと考えています」と答弁した[要出典]。 「政治とは?」との問いに対して「明日枯れる花にも水をやることだ」と答えたという。 対談でポルノ規制について訊かれた際、国民の権利を損ねる可能性もあるとして「下手に政治が手を付けるべき問題ではない」と述べ、国民レベルでの自主規制をすべきだとコメントした。 官僚としての輝かしい経歴を持ちながらも阿波戦争が起こって第10回参議院議員通常選挙に敗れてただの人となってしまった後藤田正晴に「後藤田君。必ずこんどは東京に攻めのぼってこいよ。応援するからな」と励ました。当時多くの者が自分のもとを離れていき苦杯をなめていた後藤田にとって、このことは終生の記憶となった。落選後も地元の行脚を続けた後藤田は、第34回衆議院議員総選挙で選挙区で三木と対決し、得票こそ現職の総理大臣である三木に劣るものの、ロッキード事件に絡めたネガティブ・キャンペーンを退けて、第二位で当選した。後藤田は1978年の自民党総裁選挙で辣腕をふるい、大平の勝利に貢献することとなる。 1979年(昭和54年)の四十日抗争で大平続投か福田返り咲きかで自民党分裂直前までいった党内抗争が起こったが、当時首相官邸での食事中に側近だった加藤紘一内閣官房副長官に「福田は俺にやめろと言った。しかし、後を誰にやらせるか考えると、俺にはやめる自由がない。しかし、万が一俺が今ここで死んだら、誰を日本の総理にすべきか」と話しかけ、加藤が返答に窮していると、大平が口を開き「いいか、(もし俺が死んだら)日本のために総理をさせなきゃならぬのは福田赳夫だ」と続けたため、加藤は驚いたという。政敵の福田とは凄まじい党内抗争を繰り広げていたが、そうした中にあっても福田の見識を高く評価していたことが窺われる逸話である。
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