怨霊伝説とは? わかりやすく解説

怨霊伝説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:59 UTC 版)

楠木正成」の記事における「怨霊伝説」の解説

軍記物語『太平記』の正成は、儒教的には三徳兼備聖人として描かれるが、七生滅賊の節で述べたように、仏教的には「七生滅賊」の罪業願った悪人として描かれる。そして、流布本23大森彦七が事」では怨霊として登場する伊予国愛媛県)の大森盛長通称を彦七)という人物は、『太平記』劇中では、室町幕府の有力武細川定禅部下として、湊川の戦い楠木正成戦い、腹を切らせ猛将であると設定されている。また、大森氏猿楽(後の能楽)を嗜む一族でもあったという。 興国3年/暦応5年1342年)春より少し前のある夜、盛長が猿楽楽屋に行く途中、山隙の細道数え17歳から18歳程度(満15歳から17歳程度)の美女佇んでいた。か弱い姿の美女に心惹かれた盛長は、猿楽桟敷席までお連れましょう申し出て背中背負って歩き始めた。すると、たちまち女の口は裂け、角が生えて怪物となり、盛長を空中に連れ去ろうとしたが、盛長が必死に抵抗し部下駆けつけたので、怪物消滅した猿楽延期となった再開され猿楽当日、再び化け物観客前に現れ楠木正成名乗り朝敵滅賊の野望を果たすために、修羅眷属となり、「貪」「瞋」「癡」の三毒魔剣探し求めていると明かすこのうち、「貪」の刀は日吉大宮のもとにあったが、怨霊正成は日吉の神(大己貴神)に仏法教え引き換え手に入れた。「瞋」の刀は足利尊氏所持していたが、怨霊正成は尊氏の寵童(愛人少年)に変装して奪った。残る「癡」の刀は、もと悪七兵衛景清佩刀であったが、壇の浦の戦いで海に落ちたのを、イルカ飲み込んで讃岐国香川県)の宇多津沖まで運びそこで死んだが、100年余りのちに漁師の網に引っかかって地上戻り、いま盛長が持つ刀がそれであるのだという。この三毒魔剣揃った時、尊氏の世は終わると言い、盛長から「癡」を奪おうとする。 この後、たびたび盛長と怨霊正成の対決が行われ、ついには後醍醐天皇護良親王新田義貞平忠正源義経平教経怨霊も正成に加わって大きな戦いとなる。武力頼って陰陽師頼っても正成の怨霊打ち倒すことはできなかったが、盛長の縁者である禅僧調伏頼んだところ、『大般若経』の読経が行われ、その功徳によってついに正成の怨霊鎮めることができた。まことに仏法鎮護国家の力は素晴らしい、と『太平記』作者円観ら)は称える興国3年/暦応5年1342年)春、盛長は以上の次第足利直義尊氏の弟で当時事実上最高権力者)に伝え、さらに天下霊剣として、「癡」の刀を献上した。この話に感じ入った直義新し拵えを作らせ、「癡」を自らの刀とした、と描かれる郡司正勝『かぶきの発想』(1959年)の推測によれば上記物語は、もともと怨霊鎮撫のために書かれ猿楽台本だったのではないかという。また、流布本」では正成を調伏するのは禅宗の僧とされるが、砂川博『軍記物語研究』(1990年によれば、本来は西大寺系の律宗の僧という設定ではないかという。樋口州男日本中世の伝承世界』(2005年)の主張によれば上記の話はもともと伊予大森氏によって興行されていた物語であり、この地方での南朝敗退説明するために、『太平記』作者取り込んだではないかという。新井孝重は、大森氏が正成討伐に関わったことは歴史的事実であろう考え、正成の勢力基盤であった民間武装民に流布していた天下転覆の怨霊伝説を、敵方である大森氏怨霊恐れ怨霊鎮魂譚に組み替えたのではないか推測している。

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怨霊伝説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 07:32 UTC 版)

立見峠のおとんじょろう」の記事における「怨霊伝説」の解説

立見峠はおとんじょろう伝説の他に怨霊伝説も秘める戦国時代山名氏重臣武田高信鳥取城拠って主家山名氏背き山名氏居城布勢天神山城軍勢向けた山名氏若き武将・山弥次郎武田勢追い散らし、城を出て追撃した弥次郎立見峠まで武田勢追ったが、これは高信計略で、深追いしすぎた弥次郎武田勢伏兵退路断たれ雑兵の手にかかるよりはと峠の頂上近く窪地自刃した。それ以後、峠には無念の死を遂げた弥次郎亡霊出没するようになった弥次郎亡霊は、風雨の強い日などに、具足纏い白い綾布鉢巻として、黒い馬にまたがり虚空2~3間あまりを轡の音も高らかに通り過ぎたという。恐怖した本高村人は、弥次郎自刃した窪地近く立見八幡宮谷立見神社)を造り弥次郎の霊を慰めた

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怨霊伝説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/03 05:58 UTC 版)

崇徳天皇」の記事における「怨霊伝説」の解説

保元の乱終結してしばらくの間は、崇徳院罪人として扱われた。それは後白河天皇方の勝利を高らかに宣言した宣命(『平安遺文』2848)にも表れている。崇徳院讃岐国崩御した際も、「太上皇無服仮乃儀(太上皇崇徳上皇)、服仮(服喪)の儀なし)」(『百錬抄』)と後白河院はその死を無視し、「付国司行彼葬礼自公家無其沙汰国司付けてかの(崇徳上皇)の葬礼行い公家よりその沙汰なし)」(『皇代記』)とあるよう国司によって葬礼が行われただけで、朝廷による措置はなかった。崇徳院罪人とする朝廷認識は、配流された藤原教長らが帰京許され藤原頼長の子師長後白河院側近になっても変わることはなかった。当然、崇徳院怨霊についても意識されることはなかった。 ところが安元3年1177年)になると状況一変するこの年延暦寺強訴安元の大火鹿ケ谷の陰謀立て続け起こり社会安定崩れ長く続く動乱始まりとなった。『愚昧記安元3年5月9日条には「讃岐院ならびに宇治左府の事、沙汰あるべしと云々。これ近日天下悪事彼の人所為の由疑いあり」とあり、以降崇徳院怨霊に関する記事貴族日記頻出するうになる。『愚昧記5月13日条によると、すでに前年には崇徳院藤原頼長怨霊問題になっていたという。安元2年1176年)は建春門院高松院六条院九条院相次いで死去している。後白河や忠通に近い人々相次いで死去したことで、崇徳や頼長の怨霊意識され始め翌年大事件続発がそれに拍車をかけたと思われる崇徳怨霊については、『吉記寿永3年1184年4月15日条に藤原教長崇徳院と頼長の悪霊神霊として祀るべきと主張していたことが記されており、かつての側近である教長がその形成深く関わっていたと見られる精神的に追い詰められ後白河院怨霊鎮魂のため保元宣命破却し、8月3日には「讃岐院」の院号が「崇徳院」に改められ、頼長には正一位太政大臣追贈された(『百錬抄』)。 寿永3年1184年4月15日には保元の乱古戦場である春日河原に「崇徳院廟」(のちの粟田宮)が設置された。この廟は応仁の乱後衰微して天文年間平野社統合された。また崩御直後地元の人達によって御陵近く建てられた頓証寺(現在の白峯寺に対しても官の保護与えられたとされている。 怨霊としての崇徳院イメージ定着し近世文学作品である『雨月物語』(「白峯」)・『椿説弓張月』などにおいても怨霊として描かれ現代において様々な作品において菅原道真平将門と並ぶ日本三大怨霊として怨霊祟りモチーフとして使われている。 その一方で後世には、四国全体守り神であるという伝説現われるうになる承久の乱土佐国流され土御門上皇後白河院曾孫)が途中で崇徳天皇御陵近く通った際にその霊慰めるために琵琶弾いたところ、夢に崇徳天皇現われ上皇都に残してきた家族守護約束したその後上皇遺児であった後嵯峨天皇鎌倉幕府推挙により皇位就いたとされている。また、室町幕府管領であった細川頼之四国守護となった際に崇徳天皇菩提弔ってから四国平定乗り出して成功して以後細川氏代々守護神として崇敬されたと言われている(ともに『金毘羅参詣名所図会』・『白峰寺縁起』)。 明治天皇慶応4年1868年8月18日に自らの即位の礼執り行うに際して勅使讃岐遣わし崇徳天皇御霊京都帰還させて白峯神宮創建した昭和天皇崇徳天皇八百年祭に当たる昭和39年1964年)に、香川県坂出市崇徳天皇陵に勅使遣わして式年祭執り行わせている。

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