山名誠通に関する異説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/20 21:57 UTC 版)
通説によると、鳥取城は天文13年(1544年)に山名誠通の命を受けた武田国信(高信の父)の家臣・田原某により築城されたことになっている。しかし、天文12年(1543年)に尼子晴久が鳥取山下(鳥取城)を攻めた記録があるので、鳥取城は山名誠通に対する但馬山名氏の抑えとして築かれたとする説が有力になっている。 前記「申の歳崩れ」に相当する合戦については、当時の古文書には記録されていない。また山名誠通は確実な文書には天文15年(1546年)を最後に登場しない。加えて、誠通の家臣とされた武田山城守も但馬山名氏に通じていたことを裏付ける文書も発見されている(一方、但馬山名氏の家臣が因幡国内での活動を活発化させるのもこの時期以降である)。したがって、山名誠通は天文15年(1546年)頃に但馬の山名祐豊と鳥取城の武田山城守の攻撃によって、立見峠で討たれたとする説もある。現在も立見峠周辺に残る「山名弥次郎の怨霊伝説」は、誠通討ち死にの史実が姿を変えて伝えられたものと考えることもできる(高橋正弘『山陰戦国史の諸問題・上』より)。
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