山名氏麾下の和智氏と隣国毛利氏との関係
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「和智誠春」の記事における「山名氏麾下の和智氏と隣国毛利氏との関係」の解説
備後国三谿郡吉舎の南天山城を本拠とした国人・和智氏の第8代当主である和智豊郷の子として生まれ、備後守護の山名誠豊から偏諱を受けて「誠春」と名乗ったと推測される。国境を挟んで近接する毛利氏とは早くから対等な同盟関係にあったとみられ、享禄2年(1529年)、父・豊郷は毛利元就が石見国・国人高橋氏を討伐した際、松尾城の高橋重光(高橋弘厚か)を共に討つなどこれに協力した。誠春は山名祐豊の傘下にあり、山名氏配下の国人領主としてもっとも有力な国衆であったが、尼子氏の南下に対抗するために隣接する毛利元就を介して大内氏とも通じた。 天文22年(1553年)には同族の江田隆連が尼子晴久に従ったことを祐豊・元就に伝え、隆連の守る旗返城攻撃や、天文24年(1555年)の厳島の戦いなどにおいて毛利方として参戦した。以降、毛利氏の影響を強く受けていく事ことになる。
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