山名氏の内紛と毛利氏の侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 07:13 UTC 版)
「鳥取城」の記事における「山名氏の内紛と毛利氏の侵攻」の解説
戦国時代中頃の天文年間、因幡の守護である山名誠通が久松山の自然地形を利用した山城として築城したとされてきたが、近年の研究では誠通の因幡山名氏と対立する但馬山名氏(山名祐豊)の付城として成立した可能性が支持されている。正式に城主が確認されるのは、元亀年間の武田高信からである。高信は誠通の滅亡後、但馬山名氏の分家として再興された因幡山名氏の家臣であったが、しだいに力をつけ永禄年間には鳥取城を拠点とした。湯所口の戦い以降、守護家に対して優勢になった高信は天神山城を攻撃し、因幡守護の山名豊数を鹿野城に逃亡させ名目上の守護・山名豊弘を擁立し下剋上を果たした。高信はその後も豊数の弟で主筋である山名豊国としばしば対立し、安芸の毛利氏と誼を通じるようになる。 1573年(天正元年)、高信を討つために山中幸盛ら尼子残党と結んだ豊国の攻撃を受け、劣勢の高信も和議を結び城を明け渡すが(尼子再興軍による鳥取城の戦い)、まもなく豊国の手によって謀殺された。因幡山名氏の本拠も鳥取城に移されるが、同年に後巻に進出した吉川元春に攻められ豊国は降伏、市場城主・毛利豊元が城主となった。しかし、1574年(天正2年)再度尼子氏残党に攻められて降伏する。 1575年(天正3年)芸但和睦で毛利氏の力が鳥取に直接及ぶようになると、その手から逃れるため尼子残党が鳥取城を退き豊国が城主に落ち着く。
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