山名政豊との戦い
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赤松政則が一代にして播磨を中心に山陽地方に勢力を回復したため、旧赤松領を支配していた山陰地方に勢力を張る山名宗全の孫・政豊との対立・抗争が当然ながら起こり、応仁の乱の収束後も抗争は続いた。政則は山名領の因幡で強大な勢力を保持していた国人・毛利次郎貞元を支援して因幡守護・山名豊氏を圧迫させたが、これは政豊により鎮圧された(毛利次郎の乱)。また伯耆でも山名豊氏の弟で同国守護の元之と豊氏の子・政之による争いが起こり、政則は政之を支援して元之の追放を目論むなどの工作を行った(山名新九郎・小太郎の乱)。 文明15年(1483年)7月、松田元成が山名政豊軍を手引きし、山名方の赤松領侵攻が開始された(山名氏の第1次播磨侵攻)。浦上則宗より山名軍に攻められていた福岡城への救援を求められると、政則は援軍を送る一方、山名氏の本領である但馬国攻めを行った。このため赤松軍は軍を二分して山名軍と当たることとなり、但馬侵攻軍は同年12月25日に真弓峠にて垣屋氏を主力とした山名軍に大敗し、逆に播磨へと追撃された。この大敗により、後詰が失敗した福岡城も陥落してしまった。政則は、生き残った家臣らと姫路を目指したが、途中で行方不明になるなどの大敗北となった。 政則の大敗、福岡城の陥落という大失態を知った則宗は激怒した。この大失態により則宗と小寺則職ら重臣らが領国支配の実権を握り、政則は海路から堺へと出奔した(『後法興院記』『大乗院日記目録』)。文明16年(1484年)2月5日、則宗は主人である政則の守護職と家督の廃位を宣言し、新たに赤松分家の有馬氏から有馬慶寿丸(有馬元家の孫)を当主として擁立することとし、他の有力被官である明石・依藤・中村・小寺の各氏を説得し、彼ら全員の総意として幕府に当主交代の申請を行なった。第9代将軍・足利義尚はこれを承諾したとされるが、『大乗院寺社雑事記』では、政則の解任は無効であると記されている。この政則の失脚は赤松家内部での分裂を激化させ、赤松一族の摂津有馬の他、在田・広岡氏は山名政豊に味方して新当主を支持した。堺に逃れた政則は別所則治の助けを得て、3月に将軍の義尚と謁見し、12月には播磨への帰還を果たした。政則の復帰を助けた別所氏は以後政則の片腕となり重く用いられ、播磨東部守護代に任命されている。 また、一連の赤松の内紛を突いた政豊の侵攻により、赤松氏は美作と備前を奪われた。一方で則宗・則職の専横に他の家臣が反発し、政則の復帰を求めて則宗は窮地に陥った。政則は足利義政の仲介を求め、政則と則宗は和解して山名軍に当たった。文明17年(1485年)閏3月、真弓峠・蔭木城合戦で政則は山名軍に大勝し、山名氏の有力重臣である垣屋氏らを討ち取った。以後、赤松軍は攻勢に転じ、6月に現在のたつの市で行なわれた片島合戦でも苦戦しながらもまた勝利し、文明18年(1486年)1月の英賀合戦や4月の坂本の戦いでも勝利した。その後も政則は政豊に勝ち続けた。一方で京都の細川政元との政治的連携も深め、政豊が細川氏の援軍を得ることを事前に阻止した。山名政豊との戦いは坂本城の戦いを最後に決着した。この戦いで敗れた政豊は一時行方不明になったほどの敗北であり、播磨国維持が難しくなった政豊は、長享2年(1488年)7月に山名勢を率いて播磨を諦め、撤退した(『蔭凉軒日録』)。 以後、赤松領の経営は政則を筆頭に掲げ、浦上・別所・龍野赤松など奉行人が分担・連携して行なわれた。
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