武田国信とは? わかりやすく解説

武田国信

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/14 08:50 UTC 版)

武田国信(たけだ くにのぶ)

  1. 室町時代後期から戦国時代にかけての武将。若狭国丹後国守護安芸国分郡守護。
  2. 戦国時代の武将。因幡国鳥取城主。

武田国信(若狭武田氏)

 
武田 国信
時代 室町時代後期 - 戦国時代
生誕 永享9年(1437年
死没 延徳2年6月21日1490年7月8日
改名 国信→宗勲(法名)
別名 通称:彦太郎
戒名 玉華院殿功林宗勲大居士[1]
官位 治部少輔[1]大膳大夫[1]
幕府 室町幕府 若狭[1]丹後守護安芸分郡守護[1]
氏族 若狭武田氏
父母 父:武田信繁[1]
兄弟 信栄[1]信賢[1]国信元綱[1]
信親[1]元信
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武田 国信(たけだ くにのぶ)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将守護大名安芸武田氏当主武田信繁の三男。若狭国丹後国守護安芸国分郡守護。若狭武田氏3代当主。生年は嘉吉2年(1442年)ともされる。

生涯

元服当時、三男で2人の兄がまだ健在であったことから、若狭武田氏の分家を継ぐ事が想定されていたとみられ、当時の幕府の実力者である畠山持国から偏諱を得てその後ろ盾を得ようとしたと思われる。また、仮名の彦太郎は、若狭・安芸武田家の嫡男(この場合、長兄の信栄)の通称が彦九郎であったことと関係あると考えられる。家督継承前は治部少輔に任じられて足利義政御供衆となっていた[2]

応仁の乱では次兄・信賢同様に細川勝元の東軍に属して、土岐成頼らの西軍と戦うなど奮戦している。しかし、文明3年(1471年)に弟・元綱の離反にも遭うなど苦戦も強いられている。同年の兄の死後家督を継ぐと共に大膳大夫に任ぜられた。信賢に嫡子はいたが幼少であったため、国信が家督を継ぐこととなる。この嫡子は文明11年(1479年)に15歳で亡くなったとされるが、後の蠣崎信広とする伝承もある。ただし、信広については国信の子とする伝承もあり、若狭武田氏出自とする説は後世の仮託の可能性が高い。

文明6年(1474年)4月、山名政豊細川政元の和睦の仲介役を務める。しかしこの時の和睦の条件の1つとして、武田氏が応仁の乱の最中に一色義直と戦って奪った丹後の所領を返還せよという条件があった。丹後に在陣中の武田氏被官人はこれに不満で所領返還を拒んだが、和睦に参加した国信は援軍を丹後に送ることができなかった。丹後の武田勢は独力で一色氏と戦わざるを得ず、9月に主将逸見真正は自害、武田軍は敗れて壊滅してしまった。国信は落胆して出家し、宗勲と号したという。

文明13年(1481年)に元綱と和解、文明15年(1483年)には山城守護に任ぜられるが辞退している[3]。長享元年(1487年)に9代将軍足利義尚六角高頼討伐(長享・延徳の乱)に従って出陣したが、延徳元年(1489年)に義尚が亡くなると遺骸に付き添って京都に戻った後若狭へ帰国、翌2年(1490年)6月21日に小浜で病死した。享年54。嫡子の信親には文明17年(1485年)に先立たれていたので、もう1人の子の元信が跡を継いだ。菩提寺は玉華院。

国信は文化人として優れており、和歌や連歌の会をたびたび開いたという。

武田国信(因幡武田氏)

 
武田 国信
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 天文14年(1545年
官位 山城守
主君 山名誠通
氏族 因幡武田氏
高信、又三郎
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武田 国信(たけだ くにのぶ)は、戦国時代武将因幡国守護山名氏の家臣。若狭武田氏傍流の一族。

略歴

山名誠通の家臣で天文14年(1545年)に久松山城(後の鳥取城)を改築したが、あまりに堅固過ぎたため、主君より謀叛の疑念を買い謀殺された。後に子・高信は山名氏に対して叛旗を翻し、一時因幡を制圧することになる。

天文15年(1546年)10月、伯耆国南条宗勝を助けて橋津川の戦い尼子氏と戦った因幡山名氏の重臣として「武田豊前守常信」の名が記録に残るが、国信と同一人物だったかは不明(同一人物と見る説も存在する)。鳥取市在住の中世史研究家・高橋正弘によると、武田豊前守は鳥取城にあって但馬国山名祐豊に呼応して山名誠通の殺害に一役買ったとされる(高橋正弘『山陰戦国史の諸問題・上』1993年)。

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j 今井尭ほか編 1984, p. 324.
  2. ^ 木下、2016年、P22
  3. ^ 『大乗院寺社雑事記』文明15年正月24日条

参考文献

武田国信(若狭武田氏)
武田国信(戦国時代)

武田国信(若狭武田氏)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/12/24 13:21 UTC 版)

「武田国信」の記事における「武田国信(若狭武田氏)」の解説

武田 国信(たけだ くにのぶ)は、室町時代後期から戦国時代前期武将守護大名若狭丹後守護、安芸分郡守護若狭武田氏第3当主安芸武田氏当主武田信繁三男で、信栄、信賢の弟、元綱の兄。信親元信の父。通称は彦太郎官位治部少輔大膳大夫法名は玉院殿宗勲大居士生年嘉吉2年1442年ともされる元服当時三男2人の兄がまだ健在であったことから、若狭武田氏分家を継ぐ事が想定されていたとみられ、当時幕府実力者である畠山持国から偏諱得てその後ろ盾を得ようとしたと思われるまた、仮名の彦太郎は、若狭安芸武田家嫡男(この場合長兄の信栄)の通称が彦九郎であったことと関係あると考えられる家督継承前治部少輔任じられ足利義政御供衆となっていた。 応仁の乱では次兄信賢同様に細川勝元東軍属して土岐成頼らの西軍と戦うなど奮戦している。しかし、文明3年1471年)に弟元綱離反にも遭うなど苦戦強いられている。同年の兄の死後家督を継ぐとともに大膳大夫に任ぜられた。信賢に嫡子はいたが幼少であったため、国信家督を継ぐこととなる。この嫡子文明11年1479年)に15歳亡くなったとされるが、後の蠣崎信広とする伝承もある。ただし、信広については国信の子とする伝承もあり、若狭武田氏出自とする説は後世仮託可能性が高い。 文明6年1474年4月山名政豊細川政元和睦仲介役を務める。しかしこの時の和睦条件1つとして、武田氏応仁の乱最中一色義直戦って奪った丹後所領返還せよという条件があった。丹後に在陣中武田氏被官人はこれに不満で所領返還拒んだが、和睦参加した国信援軍丹後に送ることができなかった。丹後武田勢独力で一色氏と戦わざるを得ず9月主将逸見真正自害武田軍敗れて壊滅してしまった。国信落胆して出家し、宗勲と号したという。 文明13年1481年)に元綱和解文明15年1483年)には山城守護に任ぜられるが辞退している。長享元年1487年)に9代将軍足義尚六角高頼討伐長享・延徳の乱に従って出陣したが、延徳元年1489年)に義尚亡くなると遺骸付き添って京都戻った若狭帰国、翌2年1490年6月21日小浜病死した。享年54嫡子信親には文明17年1485年)に先立たれていたので、もう1人の子元信が跡を継いだ菩提寺は玉院。 国信文化人として優れており、和歌連歌の会をたびたび開いたという。 表 話 編 歴 若狭武田氏第3当主1471年 - 1475年)信栄 信国信 信親 元信 元光 信豊統 元明 | 断絶

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