怨霊信仰
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怨霊の神格化をいい、平安時代以前の怨霊とみられるものとしては、大和政権が征服を進める際に敵方の霊を弔ったという隼人塚がある。[要出典] 「祟り神」を参照 いくつかの神社などにおいて、実在した歴史上の人物が、神として祀られている。[要出典]
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怨霊信仰
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「祟り」とは神の意思の表現方法であり、人の霊の一部が、神に比した「祟り」をなすという考えは奈良時代より見られる。これが「御霊信仰」である。御霊信仰は、政治的闘争において敗北して処刑された人の霊が、疫病などの祟りを行うと信じて、その霊を慰めようとする信仰であり、怨霊信仰の一種とされる。この御霊信仰が、人を神と祀る人神信仰の始まりであり、幽霊への信仰の始まりでもあった。 密教の興隆は王権の相対化をもたらし、藤原氏の勢力拡大に伴う旧来の名族の没落とも相まって、政争敗死者を担いで王権への不満や反撥を正当化する怨霊信仰が盛んとなった。 この動きは平安時代前期には御霊会の流行を引き起こしたが、民間の疫神への信仰と結びつき、疫病をもたらす疫神の跳梁と考えられて、それを慰めるための「御霊会」が催された。平安時代の怨霊信仰の、特に最大の存在が菅原道真の怨霊である。道真の霊は、初めは恐ろしい怨霊とみられていたが、道真は文人として知られていた人でもあり、後には学問・詩歌の神として信仰されていき、慈悲に満ちる神として天神信仰へと変化していった。この変化に際し、仏教の論理により天部として位置づけられたことは、王権に対する祟りの後に祀られて善神(護法善神)となったという考え方が密教の影響だったと示している。 この典型的な例が平将門即位の状況に見られる。将門の新皇即位は、神仏習合の神であり天皇家の祖神でもある八幡神がその位を授け、位記(辞令)を菅原道真が書いたとし、仏教音楽により儀式を行うようにと神祇信仰の巫女が託宣したものであり、王権相対化の論理を正当化する手段としての仏教の影響が強く表れている。 一方で、御霊信仰と疫神信仰の融合から出たのが牛頭天王の信仰である。京都では御霊会を受け継ぎ、祇園御霊会が恒例となり、その拠点として祇王天神堂が創建され、これが現在の八坂神社となり、祇園御霊会が祇園祭となった。 北野天満宮の「北野御霊会」は応仁の乱以降途絶えていたが、2021年には新型コロナウイルス感染症の終息を願い、北野天満宮の神職と比叡山延暦寺の僧侶により行われた。
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