怨霊伝説と北野信仰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/01 03:19 UTC 版)
詳細は「天満大自在天神」を参照 道真が怨霊と見る向きが決定的となったのは、延喜23年に醍醐天皇の皇子保明親王が薨去し、これを受けて道真の復権が行われた頃だと見られている。さらに延長3年に保明親王の皇子慶頼王、承平3年には時平の長男保忠が没しており、これも道真の怨霊説を補強する形となった。 清涼殿落雷事件によって道真の怨霊は雷と結び付けられ、朝廷は火雷神が祀られていた京都北野寺の寺内社北野神社に道真を祀った。太宰府には先に醍醐天皇の勅命によって藤原仲平が建立した安楽寺の廟を安楽寺天満宮に改修して道真の祟りを鎮めようとした。また時平の弟藤原忠平の子藤原師輔は北野神社を支援し、天徳3年(959年)に祭文を捧げ、社殿を造営している。師輔は兄であり、時平の娘を妻としていた藤原実頼の家と競っており、道真の怨霊の強調は実頼の系統を圧迫する目的があったのではないかという説がある。正暦4年(994年)には疫病が流行し、これは道真の祟りとして正二位・左大臣が贈られている。一方で寛和2年(982年)には慶滋保胤が道真を学問の神として祀る祭文を挙げており、寛弘9年(1012年)には大江匡衡の祭文によって学問の神的側面が強調されている。また冤罪を晴らす神としての信仰もあり、『栄華物語』には太宰府に配流された藤原伊周が雪冤を願って太宰府天神を参詣する姿が描かれている。以降、北野信仰は中・下層階級から摂関家に至るまで広まった。 江戸時代には昌泰の変を題材にした芝居、『天神記』『菅原伝授手習鑑』『天満宮菜種御供』等が上演され、特に『菅原伝授手習鑑』は人形浄瑠璃・歌舞伎で上演されて大当たりとなり、義太夫狂言の三大名作のうちの一つとされる。現在でもこの作品の一部は人気演目として繰返し上演されている。 近代以降は忠臣としての面が強調され、紙幣に肖像が採用された。具体的には、戦前の日本銀行券の歴代の五円(五圓)紙幣のうち改造券・乙号券・丁号券・い号券・ろ号券、及び甲貳拾圓券に採用されている。配所にても天皇を恨まずひたすら謹慎の誠を尽くしたことは、広瀬武夫の漢詩「正気歌」に「或は菅公筑紫の月と為る」と詠まれ、また文部省唱歌にも歌われた(例えば尋常小学唱歌などに「菅公」と題する歌が収録されている)。第一高等学校では生徒訓育を目的に、倫理講堂正面に文人の代表として菅原道真の、武人の代表として坂上田村麻呂の肖像画が掲げられていた。昭和3年(1928年)に講談社が発行した雑誌「キング」に、「恩賜の御衣今此に在り捧持して日毎余香を拝す」のパロディ「坊主のうんこ今此に在り捧持して日毎余香を拝す」が掲載されたところ、不敬であるとの批判が起こり、講談社や伊香保温泉滞在中の講談社社長野間清治の元に暴漢らが押し寄せるという事件も発生している。 近年では、『社会科 中学生の歴史』(帝国書院)などの歴史の教科書に、『北野天神縁起絵巻』や道真の肖像画が載せられ、怨霊から神になるまでの経緯が紹介されている。
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