吉田神道の形成
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応仁年間に入ると、応仁の乱が生じて京都は焼け野原となり、多くの寺社にも影響を与え、大嘗祭や即位式などの朝廷儀礼も中絶した。その動乱に衝撃を受けた神官の一人が、吉田兼倶である。兼倶は、自らが奉職してきた吉田神社を戦火により失うとともに、吉田神社周辺の住人十数名が戦災のために命を落とし、動揺のあまり出奔するに至った。しかしながら、この戦災のために多くの古典籍を喪失したことが、かえって吉田神道という新たな神道説が形成される契機となった。 なお、吉田家は卜部を本姓とし、神祇官において亀卜を専門として代々神祇官の次官である神祇大副を世襲した家系である。中世には、卜部兼方が『釈日本紀』を著すなど日本書紀研究に精通し、「日本紀の家」と呼称されるに至っている。 さて、兼倶は『神道大意』『唯一神道名法要集』などを著して、中世神道思想を集大成しつつ、様々な宗教の言説を取り入れて「吉田神道」という新たな神道説を提示した。その中で兼倶は神道を「本迹縁起神道」(各神社に伝わる縁起類)、「両部習合神道」、「元本宗源神道」の三つに分類し、自家に伝わる「元本宗源神道」こそが我が国開闢以来の正当な神道だとし、神を「天地万物の霊宗」、道を「一切万行の起源」と定義した。また、神道と儒教や仏教との関係について、神道が根元であり、儒教はそれが中国で枝葉として現れたもので、インドに至り果実として仏教が花開いたとする根本枝葉果実説を強く主張し、三教一致の立場に立ちながら、神道こそが諸教の本質であると主張した。 その上で神道は、本質である「体」、現れ出た姿である「相」、はたらきである「用」の三側面があると主張し、それらの作用が、日月や寒暑、自然などのあらゆる現象を司っているとした。畢竟、森羅万象全ての存在の内部に神が存在し、神が宇宙全体に遍満するという一種の汎神論が、兼倶の構想した神道説であった。兼倶は、神道説とともに多くの祭儀も形成した。まず、吉田神社の境内に大元宮斎場所を築き、そこが内宮外宮、八神殿、式内社三千余社を祀る奉斎場であり、神武以来の我が国における祭祀の根元であり、全国諸社の本宮であると喧伝した。さらに密教の影響を受けて、炉を中心とする八角形の壇の中で火を焚き、そこに穀物や粥を投入しながら祈祷を行う護摩行事を発案し、「十八神道行事」「宗源神道行事」と並ぶ三壇行事を形成した。 このような教説は、『天元神変神妙経』『地元神通神妙経』『人元神力神妙経』の「三部の神経」によって説かれた。これらの経典は天児屋根伝来の教えとされたが、この三経は架空の経典であり、製作された形跡もない。兼倶は、これらに類似する経典を中臣鎌足などに著者を仮託して偽作し、経典を作り上げていったのである。斎場所の由緒も、兼倶が自ら作り上げたものである。 吉田神道は、人を神として祀る神葬祭の儀礼も確立した。古来、神道においては死を穢れとみなす習慣によって葬祭にはあまり関わってこず、亡くなった人を神として祀る例も、怨霊信仰や天神信仰など怨霊を鎮めるという形式に限られていた。しかし、人と神を密接な関係性で捉える吉田神道においては積極的に葬送儀礼が行われ、吉田兼倶はその遺骸の上に霊社となる神龍社を創建させた。 吉田神道は新興勢力でありながら、戦乱の時代という社会不安もあってか急速に台頭し、大元宮の建立に際して日野富子の後援を受けたり、1473年(文明5年)には大元宮の勅裁まで受けるなど、上流階級を中心に広く受け入れられていき、近世の神道界の中心となった。他方で、伊勢神宮の内外両宮の祠官などからは強い抗議を受けている。 吉田神道は、中世神道思想を集大成し、様々な宗教の諸言説を越境的に統合しつつ、仏教から独立した独自の教義・経典・祭祀を持つはじめての神道説となり、神道学者の岡田莊司は吉田神道の成立を「神道史上の転換期」と述べ、歴史学者の黒田俊雄は吉田神道の成立が神道の成立であると主張するなど、複数の研究者から神道史上の画期であると捉えられている。 上述の通り神葬祭を確立した吉田神道は、戦国時代に入ると戦国大名を神として祀る神社の創建に関わっていくことになり、吉田兼見は豊臣秀吉を神として祀る豊国神社の創建に関与した。また、吉田家の神龍院梵舜は徳川家康に神道を講じ、その遺言により家康没後に神葬祭を実施した(ただし、日光東照宮は天海が論争に勝利して山王神道式となった)。
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