大元宮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 14:17 UTC 版)
正式には「斎場所大元宮」(さいじょうしょだいげんぐう)という吉田神社の末社である。重要文化財。現代ではいくつかある末社のうちの一つの扱いであるが、明治に入るまでは吉田神社の信仰の中心であった。 吉田兼倶は文明年間に森羅万象の起源であり、また宇宙の根元神である虚無太元尊神(そらなきおおもとみことかみ)を祀る吉田神道(唯一神道)を考え、大成すると、室町にあった自邸に虚無太元尊神を祀る社・大元宮を建て、その祭祀を行い始めた。そして、兼倶はいよいよ吉田神道を目に見える形にして一般に広めようとし、また本格的に伊勢神宮を含む全国の神社を吉田神社の統制下に置こうと考え始めた。 そこに、日野富子などからの寄付もあって、文明16年(1484年)に吉田神社の現在地に新たな社・斎場所大元宮を創建すると、11月24日に自邸から虚無太元尊神を遷座した。 主祭神虚無太元尊神の周りには、その虚無太元尊神の作用によって生じた天神地祇八百万大神の他、全国の神々を祀っている。この大元宮を拝むことは日本中の全ての神社を拝んだことに等しいとし、神社自体の格も伊勢神宮よりも上であるとした。 まさに吉田神道の考えをそのまま形に表した吉田神道の根元殿堂といえる。 さらに、天正18年(1590年)には後陽成天皇の勅命により、かつて神祇官で祀られていた天皇の守護神である祭神8座(神産日神・高御産日神・玉積産日神・生産日神・足産日神・大宮売神・御食津神・事代主神)を祀る八神殿を、神祇官の衰退に伴い大元宮の後方に遷座して祀ることとなった。 しかし、明治となり1872年(明治5年)に八神殿は皇居に移された。それ以降は、天皇家の祖先である天照皇大神を直接祀る伊勢神宮こそが日本で最上位の神社であるという国家神道が勢いを増す中で吉田神道の勢いは衰えを見せ、現在では大元宮は吉田神社のいち末社の扱いを受けるにいたっている。 社殿背面 中門(京都府指定文化財) 鳥居
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