大元ウルスへの投降
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1294年にクビライ・カアンが死去しオルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)が即位してより2年、元貞2年(1296年)秋にモンケ家のウルス・ブカ及びアリクブケ家のヨブクル、もと大元ウルスの軍人であったドゥルダカらは大元ウルスに降伏の意を表明した。この時期にウルス・ブカらが大元ウルスに投降しようとした理由として、カイドゥに仕えることに限界を感じていたこと、クビライを恐れていた3者にとってカアンの代替わりは大元ウルスに投降する絶好の機会であったこと、当時元軍がカイドゥとの戦いで優勢にあったことなどが挙げられる。 ウルス・ブカらの降伏の意思を聞いて、オルジェイトゥ・カアンはシバウチ(鷹師)のチルタク、行上都留守のムバーラクシャー・ダームガーニー、サトク、チャガタイ家のアジキの4人を使者として派遣し降伏を迎え入れた。この4名の人選について、チルタクとムバーラクシャー・ダームガーニーは降伏に先立つ駅伝の整備・投降部隊への食糧供給などの事前実務を担当し、アジキが実際に軍を率いてウルス・ブカらを迎えるという役割分担になっていたと推測されている。 ウルス・ブカらの降伏を受け容れたオルジェイトゥ・カアンはまずヨブクルとドゥルダカの2名に大都に参上するよう命じ、ウルス・ブカはカラコルムに留められた。しかしこの間、先行きに不安を感じたウルス・ブカはカラコルムを掠奪し、捕縛・監禁されたと『集史』に記されている。一方、オルジェイトゥ・カアンは投降したウルス・ブカらの処遇を決定するため、宗室諸王を招集して会議を開いた。その間、マングト部のボロカンは「ウルス・ブカら諸王が叛乱に加わったのはその父に従っただけであり、当時幼かった彼等のあずかり知らぬことでした。今ウルス・ブカらの投降を受け容れて罪を許し、未だカイドゥ側につく有力者の投降を促すのが良いでしょう」と上奏し、オルジェイトゥ・カアンはボロカンの意見を採用した。 投降してきたウルス・ブカらの罪を問わず、厚遇することでカイドゥ傘下の内部分裂を誘うという方針は元貞3年(1297年)正月には既に定まったようで、この頃ヨブクルとウルス・ブカの歳賜の増額が決定された。また、ウルス・ブカらは大量の属民を伴って投降したため3月には食料に困ることになってしまったが、大元ウルスの朝廷は乳牛牡馬を輸送してこれを救済し、翌年にかけて大量の米をモンゴル高原に供給した。大元ウルス朝廷はウルス・ブカらの投降を大々的に内外に布告し、「大徳改元詔書」を発布して元号を「元貞三年」から「大徳元年」に改めた。その年の内の改元は非常に稀なことであり、大元ウルスがウルス・ブカらの投降を重要視していたことが窺える。
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大元ウルスへの投降
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クビライの後を継いでオルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)が即位してから2年、元貞2年(1296年)秋にアリクブケ家のヨブクル、モンケ家のウルス・ブカ、もと大元ウルスの軍人であったドゥルダカらは領民を率いてアルタイ山脈方面の「玉龍罕」にて大元ウルスに投降し、これをキプチャク人将軍トトガクが受け容れた。この時期にヨブクルらが大元ウルスに投降しようとした理由として、カイドゥに仕えることに限界を感じていたこと、「クビライを」恐れていた3者にとってカアンの代替わりは大元ウルスに投降する絶好の機会であったこと、当時元軍がカイドゥとの戦いで優勢にあったことなどが挙げられる。 ヨブクルらの投降を聞いて、オルジェイトゥ・カアンはシバウチ(鷹師)のチルタク、行上都留守のムバーラクシャー・ダームガーニー、サトク、チャガタイ家のアジキの4人を使者として派遣しヨブクルらの投降を迎え入れた。この4名の人選について、チルタクとムバーラクシャー・ダームガーニーは降伏に先立つ駅伝の整備・投降部隊への食糧供給などの事前実務を担当し、アジキが実際に軍を率いてヨブクルらを迎えるという役割分担になっていたと推測されている。 ヨブクルらの投降を受け容れたオルジェイトゥ・カアンはまずヨブクルとドゥルダカの2名に大都に参上するよう命じ、ウルス・ブカはカラコルムに留められた。オルジェイトゥ・カアンは元貞2年末から翌年にかけて投降したウルス・ブカらの処遇を決定するため、宗室諸王を招集して会議を開いた。その間、マングト部のボロカンは「ヨブクルら諸王が叛乱に加わったのはその父親に従っただけであり、当時幼かった彼等のあずかり知らぬことでした。今ヨブクルらの投降を受け容れて罪を許し、未だカイドゥ側につく有力者の投降を促すのが良いでしょう」と上奏し、オルジェイトゥ・カアンはボロカンの意見を採用した。 投降してきたヨブクルらの罪を問わず、厚遇することでカイドゥ傘下の内部分裂を誘うという方針は翌元貞3年(1297年)正月には既に定まったようで、この頃ヨブクルとウルス・ブカの歳賜の増額が決定された。大元ウルスはウルス・ブカらの投降を大々的に内外に布告し、「大徳改元詔書」を発布して元号を「元貞三年」から「大徳元年」に改めた。その年の内の改元は非常に稀なことであり、大元ウルスがウルス・ブカらの投降を重要視していたことが窺える。 一方、ヨブクルらは大量の属民を伴って投降したためモンゴル高原だけでは彼等を養うことができなくなった。そこで大元ウルスはまずカラコルムの漢軍に五条河で屯田させてその歳入を供給することを決定し、また当座の対策として乳牛牡馬や米2千石などをヨブクルらに輸送した。同時に、厚遇政策の一環としてヨブクルは朝廷より大量の金銀貨幣が与えられた。また、大徳3年(1299年)には定遠王に封ぜられ、下賜品を受けている。
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