大元ウルスへの投降とは? わかりやすく解説

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大元ウルスへの投降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/22 08:24 UTC 版)

ウルス・ブカ」の記事における「大元ウルスへの投降」の解説

1294年にクビライ・カアンが死去しオルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)が即位してより2年元貞2年1296年秋にモンケ家のウルス・ブカ及びアリクブケ家のヨブクル、もと大元ウルス軍人であったドゥルダカらは大元ウルス降伏の意を表明した。この時期ウルス・ブカらが大元ウルス投降しようとした理由として、カイドゥ仕えることに限界感じていたこと、クビライ恐れていた3者にとってカアン代替わり大元ウルス投降する絶好機会であったこと、当時元軍がカイドゥとの戦いで優勢にあったことなどが挙げられるウルス・ブカらの降伏意思聞いて、オルジェイトゥ・カアンはシバウチ鷹師)のチルタク、行上都留守のムバーラクシャー・ダームガーニー、サトク、チャガタイ家アジキの4人を使者として派遣し降伏迎え入れた。この4名の人選について、チルタクとムバーラクシャー・ダームガーニーは降伏先立つ駅伝整備投降部隊への食糧供給などの事前実務担当しアジキ実際に軍を率いてウルス・ブカらを迎えるという役割分担になっていたと推測されている。 ウルス・ブカらの降伏を受け容れたオルジェイトゥ・カアンはまずヨブクルドゥルダカの2名に大都参上するよう命じウルス・ブカカラコルム留められた。しかしこの間先行きに不安を感じたウルス・ブカカラコルム掠奪し捕縛監禁されたと『集史』に記されている。一方、オルジェイトゥ・カアンは投降したウルス・ブカらの処遇決定するため、宗室諸王招集し会議開いたその間マングト部のボロカンは「ウルス・ブカ諸王叛乱加わったのはその父に従っただけであり、当時幼かった彼等あずかり知らぬことでした。今ウルス・ブカらの投降を受け容れて罪を許し未だカイドゥ側につく有力者投降促すのが良いでしょう」と上奏し、オルジェイトゥ・カアンはボロカン意見採用した投降してきたウルス・ブカらの罪を問わず厚遇することでカイドゥ傘下内部分裂を誘うという方針元貞3年1297年正月には既に定まったようで、この頃ヨブクルウルス・ブカの歳賜の増額決定された。また、ウルス・ブカらは大量の属民を伴って投降したため3月には食料に困ることになってしまったが、大元ウルス朝廷乳牛牡馬輸送してこれを救済し翌年にかけて大量の米をモンゴル高原供給した大元ウルス朝廷ウルス・ブカらの投降大々的内外布告し、「大徳改元詔書」を発布し元号を「元貞三年」から「大徳元年」に改めた。その年の内改元は非常に稀なことであり、大元ウルスウルス・ブカらの投降重要視していたことが窺える

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大元ウルスへの投降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/22 08:08 UTC 版)

ヨブクル」の記事における「大元ウルスへの投降」の解説

クビライの後を継いでオルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)が即位してから2年元貞2年1296年秋にアリクブケ家のヨブクルモンケ家のウルス・ブカ、もと大元ウルス軍人であったドゥルダカらは領民率いてアルタイ山脈方面の「玉龍罕」にて大元ウルス投降し、これをキプチャク人将軍トトガクが受け容れた。この時期ヨブクルらが大元ウルス投降しようとした理由として、カイドゥ仕えることに限界感じていたこと、「クビライを」恐れていた3者にとってカアン代替わり大元ウルス投降する絶好機会であったこと、当時元軍がカイドゥとの戦いで優勢にあったことなどが挙げられるヨブクルらの投降聞いて、オルジェイトゥ・カアンはシバウチ鷹師)のチルタク、行上都留守のムバーラクシャー・ダームガーニー、サトク、チャガタイ家アジキの4人を使者として派遣しヨブクルらの投降迎え入れた。この4名の人選について、チルタクとムバーラクシャー・ダームガーニーは降伏先立つ駅伝整備投降部隊への食糧供給などの事前実務担当しアジキ実際に軍を率いてヨブクルらを迎えるという役割分担になっていたと推測されている。 ヨブクルらの投降を受け容れたオルジェイトゥ・カアンはまずヨブクルドゥルダカの2名に大都参上するよう命じウルス・ブカカラコルム留められた。オルジェイトゥ・カアンは元貞2年末から翌年にかけて投降したウルス・ブカらの処遇決定するため、宗室諸王招集し会議開いたその間マングト部のボロカンは「ヨブクル諸王叛乱加わったのはその父親従っただけであり、当時幼かった彼等あずかり知らぬことでした。今ヨブクルらの投降を受け容れて罪を許し未だカイドゥ側につく有力者投降促すのが良いでしょう」と上奏し、オルジェイトゥ・カアンはボロカン意見採用した投降してきたヨブクルらの罪を問わず厚遇することでカイドゥ傘下内部分裂を誘うという方針は翌元貞3年1297年正月には既に定まったようで、この頃ヨブクルウルス・ブカの歳賜の増額決定された。大元ウルスウルス・ブカらの投降大々的内外布告し、「大徳改元詔書」を発布し元号を「元貞三年」から「大徳元年」に改めた。その年の内改元は非常に稀なことであり、大元ウルスウルス・ブカらの投降重要視していたことが窺える一方ヨブクルらは大量の属民を伴って投降したためモンゴル高原だけでは彼等を養うことができなくなった。そこで大元ウルスはまずカラコルムの漢軍に五条河で屯田させてその歳入供給することを決定し、また当座の対策として乳牛牡馬や米2千石などをヨブクルらに輸送した同時に厚遇政策一環としてヨブクル朝廷より大量金銀貨幣与えられた。また、大徳3年1299年)には定遠王に封ぜられ、下賜品を受けている。

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