大元ウルスの丞相時代とは? わかりやすく解説

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大元ウルスの丞相時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/05 05:30 UTC 版)

ドゥルダカ」の記事における「大元ウルスの丞相時代」の解説

クビライ帝位継承戦争勝利したものの、帝国全体総意得たわけでもなく、事実上武力によって帝位獲得したクビライ反発する王侯多数おり、その代表的人物オゴデイ家カイドゥであったカイドゥ勢力当初弱小であったものの、1270年代末に起こったシリギの乱」を経てクビライ派遣した鎮圧軍が解体分裂したこと、モンケ家・アリクブケ家といった反クビライ派の王族カイドゥの下に亡命したこともあって急速に拡大し中央アジア一円支配する強大な勢力成長した。そこで対カイドゥ戦線起用され将軍一人ドゥルダカで、ドゥルダカ遅くとも1284年至元21年)にはモンゴル高原で軍を率いカイドゥ軍と対峙していた。同年中には皇族ヤクドゥキプチャク人将軍トトガクカイドゥ軍を撃破した功績ドゥルダカクビライ上奏しており、ドゥルダカ大元ウルス側の軍功考課する高い地位にあったものと見られる1286年至元23年)には、アルタイ山脈越えて侵攻してきたカイドゥ軍を、ドゥルダカトトガク2人協力して撃退したまた、同年中には五条屯田駐屯するカンダスンが疲弊した兵士救済願い出てドゥルダカがその調査に当たることになったが、調査の上使者やりとりしていては時機逸してしまうと判断したクビライがすぐに救済させたという記録残っている。この記述から、ドゥルダカ駐屯地五条屯田チンカイ屯田に近い地にあったではないか見られている。 1287年至元24年)、オッチギン家ナヤンクビライ対す叛乱企みモンゴリア東方諸王密かに使者派遣し仲間引き込もうとした。当時モンゴル高原駐留していたドゥルダカトトガクナヤンからカチウン家シンナカルコルゲン家エブゲン派遣され密使捕縛し、その企み尽く把握しクビライ報告したその後、「ナヤンの乱」が始まるとシンナカルドゥルダカトトガクの2大将宴会招いて謀殺せんとしドゥルダカ当初これに応じようとしたが、トトガクが宴に行くことを止めシンナカル計画失敗終わったまた、同年中には叛王の阿赤思を捕虜としている。

※この「大元ウルスの丞相時代」の解説は、「ドゥルダカ」の解説の一部です。
「大元ウルスの丞相時代」を含む「ドゥルダカ」の記事については、「ドゥルダカ」の概要を参照ください。

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