大元ウルスの丞相時代
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クビライは帝位継承戦争に勝利したものの、帝国全体の総意を得たわけでもなく、事実上武力によって帝位を獲得したクビライに反発する王侯は多数おり、その代表的人物がオゴデイ家のカイドゥであった。カイドゥの勢力は当初弱小であったものの、1270年代末に起こった「シリギの乱」を経てクビライが派遣した鎮圧軍が解体・分裂したこと、モンケ家・アリクブケ家といった反クビライ派の王族がカイドゥの下に亡命したこともあって急速に拡大し、中央アジア一円を支配する強大な勢力に成長した。そこで対カイドゥ戦線に起用された将軍の一人がドゥルダカで、ドゥルダカは遅くとも1284年(至元21年)にはモンゴル高原で軍を率いカイドゥ軍と対峙していた。同年中には皇族のヤクドゥとキプチャク人将軍のトトガクがカイドゥ軍を撃破した功績をドゥルダカがクビライに上奏しており、ドゥルダカは大元ウルス側の軍功を考課する高い地位にあったものと見られる。 1286年(至元23年)には、アルタイ山脈を越えて侵攻してきたカイドゥ軍を、ドゥルダカとトトガクの2人が協力して撃退した。また、同年中には五条河屯田に駐屯するカンダスンが疲弊した兵士の救済を願い出て、ドゥルダカがその調査に当たることになったが、調査の上使者をやりとりしていては時機を逸してしまうと判断したクビライがすぐに救済させたという記録が残っている。この記述から、ドゥルダカの駐屯地は五条河屯田・チンカイ屯田に近い地にあったのではないかと見られている。 1287年(至元24年)、オッチギン家のナヤンはクビライに対する叛乱を企み、モンゴリア東方の諸王に密かに使者を派遣し仲間に引き込もうとした。当時モンゴル高原に駐留していたドゥルダカとトトガクはナヤンからカチウン家のシンナカルとコルゲン家のエブゲンに派遣された密使を捕縛し、その企みを尽く把握しクビライに報告した。その後、「ナヤンの乱」が始まるとシンナカルはドゥルダカとトトガクの2大将を宴会に招いて謀殺せんとし、ドゥルダカは当初これに応じようとしたが、トトガクが宴に行くことを止め、シンナカルの計画は失敗に終わった。また、同年中には叛王の阿赤思を捕虜としている。
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