大元ウルスにおけるケシクとは? わかりやすく解説

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大元ウルスにおけるケシク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 16:40 UTC 版)

ケシク」の記事における「大元ウルスにおけるケシク」の解説

1271年即位したクビライ国号大元大モンゴル国(大元ウルス)と改め中国由来官僚制導入した。しかし、後述するように大元ウルス官署トップケシク長が兼ねるのが通例であり、高官のほとんどはケシク出身者占められていた。元代行政システム中央官署(中書省等)が出先機関(行中書省)から受けた報告纏めてカアン奏上しカアン判断承認受けた上で実行に移す、という流れ行われていた。この過程中、カアン報告受けて判断下すときケシク高官側近仕えて輔弼するのが通例であり、元代命令文書には「某年某月某日第〜ケシク何日カアン側近くにあるケシク高官列挙」という定型文記されている。一例として以下のような文書がある。 於至大二年十一月五日也可怯薛(イェケケシク)第一日宸慶殿西耳房内時分、速古児赤(スクルチ)也児吉你丞相宝児赤(バウルチ)脱児赤顔太師、伯荅沙丞相、赤因帖木児丞相、昔宝赤(シバウチ)玉龍帖木児丞相蛮平章、哈児参政大順司徒有来 — 広倉学窘叢書秘志五、片山1980,7頁 このように大元ウルス政事本質は「カアンケシクによる側近政治である」という点でモンゴル帝国何ら変わりないものであった大元ウルス初期クビライテムル治世において漢文文書行政携わる官僚多数必要になったため、漢人(旧金国遺民を指す)・南人(旧南宋国の遺民を指す)でありながらケシク入隊しその後官僚になる者も一定数いた。元代における漢人南人仕官ケシク・吏・儒という3ルートがあり、全漢人南人官僚の約10%ケシク出身者務めていたという。ケシクから入官する際には七品以上の高官から始まることが定められており、これに反して吏・儒として仕官した漢人南人は六-七品の官職までしか進むことができなかった。このため元代通じて様々な手段取ってケシク入隊しようとする漢人南人が後を絶たず、時のカアンはしばし漢人南人ケシク入隊禁ずる命令発している。 また、ケシクから仕官する者達の間にも就ける官職格差があり、モンゴル人が各役所トップ占め色目人がこれに次ぐ高官(財務官僚)となり、漢人南人地方行政長官職を得るに留まるこのような格差各人祖先モンゴル帝国帰順した順番タイミング由来するものであった。更にモンゴル人中でもチンギス・カン最高幹部四駿」の家系別格扱いとされ、宰相クラス人材多数輩出した明朝成立によって大元ウルスが北走して以後(北元)、ケシクどのように運用されたかは不明である。しかし、ダヤン・ハーン以後ハーン直結する部族として知られチャハルには「ケシクテン」と呼ばれる集団がいたことが記録されており、北元時代もある期間はケシク制度存続していたと推測される

※この「大元ウルスにおけるケシク」の解説は、「ケシク」の解説の一部です。
「大元ウルスにおけるケシク」を含む「ケシク」の記事については、「ケシク」の概要を参照ください。

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