大元ウルスにおけるケシク
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1271年に即位したクビライは国号を大元大モンゴル国(大元ウルス)と改め、中国由来の官僚制を導入した。しかし、後述するように大元ウルスの官署のトップはケシク長が兼ねるのが通例であり、高官のほとんどはケシク出身者で占められていた。元代の行政システムは中央官署(中書省等)が出先機関(行中書省)から受けた報告を纏めてカアンに奏上し、カアンの判断や承認を受けた上で実行に移す、という流れで行われていた。この過程中、カアンが報告を受けて判断を下すときケシクの高官が側近く仕えて輔弼するのが通例であり、元代の命令文書には「某年某月某日第〜ケシク第何日〜カアンの側近くにあるケシク=高官の列挙」という定型文が記されている。一例として以下のような文書がある。 於至大二年十一月初五日也可怯薛(イェケケシク)第一日宸慶殿西耳房内有時分、速古児赤(スクルチ)也児吉你丞相、宝児赤(バウルチ)脱児赤顔太師、伯荅沙丞相、赤因帖木児丞相、昔宝赤(シバウチ)玉龍帖木児丞相、札蛮平章、哈児魯台参政、大順司徒等有来 — 広倉学窘叢書秘志五、片山1980,7頁 このように、大元ウルスの政事の本質は「カアンとケシクによる側近政治である」という点でモンゴル帝国と何ら変わりないものであった。 大元ウルス初期、クビライとテムルの治世において漢文文書行政に携わる官僚が多数必要になったため、漢人(旧金国の遺民を指す)・南人(旧南宋国の遺民を指す)でありながらケシクに入隊し、その後官僚になる者も一定数いた。元代における漢人・南人の仕官はケシク・吏・儒という3ルートがあり、全漢人・南人官僚の約10%をケシク出身者が務めていたという。ケシクから入官する際には七品以上の高官から始まることが定められており、これに反して吏・儒として仕官した漢人・南人は六-七品の官職までしか進むことができなかった。このため、元代を通じて様々な手段を取ってケシクに入隊しようとする漢人・南人が後を絶たず、時のカアンはしばしば漢人・南人のケシク入隊を禁ずる命令を発している。 また、ケシクから仕官する者達の間にも就ける官職に格差があり、モンゴル人が各役所のトップを占め、色目人がこれに次ぐ高官(財務官僚)となり、漢人・南人は地方行政長官職を得るに留まる。このような格差は各人の祖先がモンゴル帝国に帰順した順番・タイミングに由来するものであった。更にモンゴル人の中でもチンギス・カンの最高幹部「四駿」の家系は別格扱いとされ、宰相クラスの人材を多数輩出した。 明朝の成立によって大元ウルスが北走して以後(北元)、ケシクがどのように運用されたかは不明である。しかし、ダヤン・ハーン以後ハーンに直結する部族として知られたチャハルには「ケシクテン」と呼ばれる集団がいたことが記録されており、北元時代もある期間はケシク制度が存続していたと推測される。
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